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独裁の道具に転落した主体思想、愛情から幻滅へ

独裁の道具に転落した主体思想、愛情から幻滅へ

Posted October. 11, 2010 04:02,   

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黄長鎏(ファン・ジャンヨプ)元北朝鮮労働党書記は、北朝鮮の主体(チュチェ)思想を理論化し、体系化した主体思想の「名付け親」だった。1923年、平安南道江東(ピョンアンナムド・カンドン)で生まれ、平壌(ピョンヤン)商業学校を卒業し、日本中央大学の専門部法学科を通った。1946年に朝鮮労働党に入党してからエリートコースを歩んだ。

韓国戦争中には旧ソ連のモスクワ国立大学に留学。1954年1月から金日成(キム・イルソン)総合大学の哲学講座長として教授生活を始めた。1958年1月、金日成総書記の書記室で仕事を始め、1965年には金日成総合大学学長に就任。1972年12月から11年間、最高人民会議議長を経験。1997年韓国へ亡命するときは、労働党の国際担当書記兼と高人民会議外交委員長を兼ねていた。

主体思想の体系化に専念した氏は、金正日(キム・ジョンイル)総書記が1974年に主体思想を金日成親子の偶像化論理である「革命的首領観」に結びつけて独裁の道具に転落してからは、思想的な葛藤を経験したという。1990年代初頭には、旧ソ連や社会主義国家が次々と崩壊するのを目の当たりにしながら、主体思想にも理論的な誤びゅうと現実的な限界があることを認識した。

とくに1990年代に経済難で数百万の北朝鮮住民が餓死するのを目撃しながら、北朝鮮の社会主義体制に背を向けた。氏は、後に「金日成主席が1994年7月に死亡した後、実権を掌握した金正日が住民たちの食糧難にもかかわらず、戦争の準備や住民の弾圧に乗り出すのに嫌気が刺した」と振り返った。

黄氏は、1996年2月モスクワ大学で開かれたセミナーで北朝鮮の主体思想に関する宣伝を疎かにしたとして、党幹部たちの批判を受けたこともある。とくに同年5月、金正日から責任を追及され、失望と幻滅を覚えてからは、北朝鮮指導部に「戦争を放棄して改革開放を進めるべきだ」と書いた遺書を残して自決することも考えていたとされる。

1997年4月に韓国に亡命した後は、「金正日の独裁専横と戦争準備状況を世界に暴露し、祖国統一に一助したいという信念から亡命を決心した」と話していた。亡命当時、平壌には留学時代に出会った夫人のパク・スンオクさんと一男三女を置いていた。



spear@donga.com