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鬱陵島の岩刻文字を改めて読んでみると 「わが地方官、西より来たり民を顧みる」

鬱陵島の岩刻文字を改めて読んでみると 「わが地方官、西より来たり民を顧みる」

Posted June. 03, 2026 08:31,   

Updated June. 03, 2026 08:31


「沙工(サゴン) 朴明淂(パク・ミョンドゥク) 蔣(?)今男(チャン・グムナム)」

東北アジア歴史財団による鬱陵島(ウルルンド)・独島(ドクト)総合学術調査を通じて、最近確認された19世紀初めの朝鮮の鬱陵島捜討軍(捜討=捜索・討伐)船舶の船長名だ。これを含め、朝鮮が鬱陵島などを公式領土として管理していたことを示す刻石文(石に刻まれた文字)が鬱陵島で新たに見つかった。

東北アジア歴史財団は2日午前、「朝鮮時代の捜討から見た鬱陵島と独島」と題する学術会議を開き、4月20~24日に実施された総合学術調査の結果を報告した。1947年の朝鮮山岳会学術調査の伝統を継ぐ今回の探査では、鬱陵島の捜討刻石文が全数調査された。新たな史料が発掘されたほか、計15枚の高品質の拓本も制作された。

特に「鬱陵苔霞里(テハリ)刻石」では、新たな文字が多数確認された。捜討官が残した苔霞里刻石文は、30メートルを超えて続く岩壁に点在している。全部で約11件が確認された。調査団に参加したコ・グァンウィ財団首席研究委員によると、そのうち「李輔国(イ・ボグク)刻石」で「沙工」の名前2つが新たに見つかった。李輔国は1804年に江原三陟(カンウォン・サムチョク)営将に赴任し、翌年に鬱陵島を捜討した人物。「沙工」は船の最高責任者を指す語で、捜討に船が2隻以上動員されたことを示唆する。捜討団の規模が少なくとも100人前後だったことが推定される。

この銘文の横では、「軍O 鄭OO 李OO」と書かれた文字も新たに確認された。軍関連の職責を持つ人物の名前と推定される。苔霞里刻石ではこのほかにも、「金」の字や、さらに別の「金」の字、「江陵(カンヌン)」などの筆画が新たに確認された。コ氏は「今回は日程の都合でここまで拓本を取ることはできなかったが、今後、捜討活動に関する人名などが追加で確認される可能性が高い」と話した。朝鮮朝廷は17世紀末から約200年間、捜討官が定期的に鬱陵島を訪れ、実態を調査して報告するようにしていた。

財団の今回の調査では、刻石文を明確に判読する成果もあった。コ氏は、苔霞里の「光緒銘刻石」(1890、93年)で、従来「使」などと読まれていた文字を「侯」と見なし、「功」とする意見があった文字は「切」、「蕩」と読まれていた文字は「蒭」と判読した。

これにより、「聖化東漸我侯西來誠切祝華惠深求蒭」の文句は、「聖なる君主の教化は東の鬱陵島にまで及び、わが地方官は西の陸地から赴任して来た。王化を奉じようとする誠はこの上なく篤く、民を養い顧みる恩恵は深く大きかった」との意味と解釈された。コ氏は「朝鮮末期の鬱陵島統治と住民の認識が表れている一節だ」と評価した。

今回の調査では、仏教中央博物館長を務めた名僧、興善(フンソン)僧侶が刻石文を拓本に取った。「光緒銘刻石」は横210センチ、縦266センチの一枚物の大型拓本として制作された。学術会議で公開された拓本には、僧侶が作業中に負傷して流したかすかな血のしずくの跡があった。

学術会議では、これら遺跡の再整備の必要性も提起された。苔霞里刻石は、観覧用デッキがかえって捜討関連刻石を隠したり、損傷させたりしている面があると指摘された。ムン・サンミョン財団研究委員は「地質環境と歴史文化コンテンツに対する深層研究を通じて、鬱陵島と独島がユネスコ世界ジオパークにともに指定されるよう推進すべきだ」と話した。

財団は今後、刻石文の追加拓本を取り、捜討関連地域である慶尚北道蔚珍(キョンサンプクト・ウルジン)なども調査する方針だ。東北アジア歴史財団の朴枝香(パク・ジヒャン)理事長は「徹底した考証を通じた真実究明こそ、われわれの領土主権を守る最も強力な学術的盾であり武器だ」と強調した。


趙鍾燁 jjj@donga.com