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ゴッホを不滅へと導いた不屈の女性

Posted June. 07, 2025 09:42,   

Updated June. 07, 2025 09:42


天才詩人、李箱(イ・サン、1910~37)の作品は、当時の文学誌に掲載されるたびに大きな衝撃を与えた。特に彼が死の3年前に詩「鳥瞰図」第1編を発表した際には、「こんな詩を掲載するなら廃刊しろ」という読者の激しい抗議により、新聞社が予定していた連載30編を15編で打ち切るほどだった。李箱の作品が現在、韓国詩の傑作として認められるようになった背景には、数々の酷評にもかかわらず詩を掲載し広めようと努力した人々の存在がある。しかし、残念ながら、世間は彼らの努力をあまり記憶していない。

オランダ・アムステルダムのヴィンセント・ファン・ゴッホ美術館の主任研究員である著者も、ゴッホ(1853~90)について同じような考えを持っていたようだ。生前、作品をほとんど売ることができず、宣伝や販売とは無縁だったゴッホが、37歳の若さで生涯を終えながらも、どのようにして不滅の名声を得ることができたのか。彼の人生と芸術、そしてその道を歩みながら経験した苦痛を切実に綴った手紙は、どのようにして世に知られるようになったのか。

著者は10年以上の研究の末、ゴッホの弟テオの妻「ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862~1925)」の隠れた努力があったと語る。そして、夫の死によって図らずも義兄であるゴッホの遺産を受け継ぐことになったヨハンナが、不屈の意志と献身によってゴッホの芸術を世に広めた過程を、まるで「ゴッホ伝記」を執筆するかのような情熱で描いている。

「重大な瞬間だった。ヨハンナはテオの役割を自ら担うことを決意したのだ。ストレスは非常に大きかったが、彼女は旅行カバンにヴィンセントのドローイングをしっかりと詰め込んだ。急速に悪化するテオの健康を心配しながらも、ヴィンセントの作品がブリュッセル展覧会で可能な限り効果的に展示されるよう細心の注意を払った。これが、彼女が生涯にわたって担うことになるゴッホ芸術遺産の広報と普及という名誉ある使命の出発点だった。」(PARTⅡ「テオとヴィンセント、二人との生活」より)

夫テオが亡くなった時、ヨハンナは28歳だった。結婚生活はわずか2年余り。十分に新たな人生を歩むことができる年齢であり、それが当然の選択のように思われた。しかし、ヨハンナはゴッホ兄弟が残した芸術的遺産を管理し、広めることを自らの使命とした。そして、下宿屋の経営で生計を立てながら、ゴッホ兄弟の手紙を自ら筆写し、他言語に翻訳するなど、「ゴッホを広める」活動に取り組んだ。

この努力は、ゴッホの死後10年以上が経過した1905年、ヨハンナが企画したアムステルダム市立美術館の展覧会が大衆の関心を集めることで実を結び始めた。ゴッホの人気が高まるにつれ、作品の展示や購入の要望が殺到した。当時ヨハンナの下宿屋を訪れた人々は、「家全体がゴッホの作品で埋め尽くされ、寝室の壁にはほとんど空きスペースがなかった」と語った。ヨハンナは晩年、パーキンソン病によりペンを持つことができなくなるまで、ゴッホ兄弟の手紙を筆写し、翻訳し続けたという。

著者は、ゴッホを広める活動とは別に、社会民主労働党(SDAP)で活動し積極的に女性運動に参加したヨハンナの人生についても、著書の多くの部分を割いている。読み進めるうちに、一人の画家の作品を世に広めようと努力しただけでなく、19世紀末から20世紀初頭の男性支配的な社会の中で、自らの世界を築いた不屈の女性がいたことに気づかされる。原題『Alles voor Vincent(すべてはヴィンセントのために)』。


李鎭求 sys1201@donga.com