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遅ればせながらの憐憫

Posted July. 26, 2023 08:23,   

Updated July. 26, 2023 08:23

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独創性が強調される時代だが、芸術は本質的に他の芸術家のものを借りる行為だ。ジュリア・クリステヴァの言葉通り、すべての作品は純粋な創作ではなく「引用のモザイク」なのかもしれない。作家金昭晋(キム・ソジン)の「自転車泥棒」は、イタリアの映画監督ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」を借用したということ隠さない。

第2次世界大戦直後のローマを舞台にしたこの映画は、貧しい人々に焦点を当てている。アントニオの家族もそんな人々だ。アントニオは、映画のポスターを壁に貼る仕事を得る。自転車が必要な仕事だが、初日に自転車を盗まれる。苦労して泥棒を捕まえるが、自転車はどこかに持ち去られてない。絶望的だ。アントニオは他人の自転車を盗んで捕まるが、その姿を息子のブルーノが目撃する。自転車の持ち主は、息子の前で恥をかくアントニオを憐れんで解放するが、父親の権威は地に落ちた。

金昭晋の小説は、映画で二つの傷を指摘する。一つは、息子の前で恥をかかされたアントニオの傷であり、もう一つは、父親の弱い姿を目撃したブルーノの傷だ。小説の語り手は、映画に出てくる親子が自分と父親に似ていると告白する。語り手の父親は駄菓子屋をしながら卸売業者の不当な暴力に苦しんだ。卸売業者の要求で彼の前で罪のない息子の頬まで殴らなければならなかった。息子はそれを目撃しなければならなかった。ここまでは映画と小説は似ている。

しかし、違う点がある。映画の中の息子は肩を落とした父の手を温かく握るが、小説の中の息子は父の無気力な姿に「死んでも父親という存在にはならない」と誓った。傷への向き合い方が全く違う。しかし、振り返ってみると、父親を惨めにさせたのは貧困と時代だった。私たちの父親がしばしばそうであったように。だからなのか、小説には彼の父親、いや私たちの父親に対する遅ればせながらの罪悪感、遅ればせながらの憐憫が漂う。