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勇士の子孫たちから学んだこと

Posted July. 12, 2022 09:07,   

Updated July. 12, 2022 09:07

한국어

韓国戦争の参戦将兵の子孫たちが韓国を訪問した際に会う機会があった。国連軍の国籍と同じくらい国籍や年齢層も多様で、若い学生も多かった。参戦将兵のひ孫もいたという。

韓国戦争の世界史における意味や20世紀に起きた世界大戦と冷戦、21世紀に迫る戦争の脅威と平和のための努力などをテーマに話を交わした。質問や討論が続いたが、少し驚かされた。学生たちの考えや討論の水準が意外と高かったためだ。もっと深く鋭い質問をしたい学生たちもいたようだが、席が席なので、質問の水位を下げたりするなど多くの配慮をしてくれたようだ。

若い学生たちとの対話は、いつも新鮮で新しい。初めて聞く話だからではなく、私たちもあの時同じように悩み、その悩みが世界の現実と出会って経験した旅程が思い浮かぶからだ。それがなぜ新しいのだろうか?陳腐できまり決まったものだと言うべきではないだろうか。それは違う。人間の欲望は変わっておらず、人類は同じ過ちとミスを繰り返す。だからといって、人類は同じ行動を繰り返すわけではない。50年に作られた道路だとしても、道路の上を走る自動車は変わる。道路で起きる問題と対立は同じだとしても、人は変わり、彼らはまた彼らなりの解決策を探さなければならない。旧世代が判別できるのは、彼らが織り成す結論ではなく、問題に対抗しようとする善良な意志と勇気だ。

世界各国から来た学生であるだけに、もう少し深い対話を交わせたなら、国家間の問題や大陸間の対立、貧富格差、スーパーパワーの役割または支配について論争的な対話を聞くことができたかもしれない。確かにそのような問題意識が見えた。それにもかかわらず、お互いを理解しようとする努力も感じられた。

知っていることと対話の違いは何だろうか。それはお互いを尊重し理解しようとする姿勢の有無だ。世の中を分裂させ、極端な選択をさせる方法は何だろうか。それは絶対容認できない悪の領域を設定することだ。理想主義者は、対話で解決できないことはないという。しかしそれは違う。対話以前に世の中を善悪に分け、単純化する心構えから解き放たれなければならない。