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責任と犠牲

Posted December. 14, 2021 08:35,   

Updated December. 14, 2021 08:35

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(10) [オピニオン]責任と犠牲

ある兵士がハンバーガー店に立ち寄った。ある市民が彼の食事代を肩代わりしてから出て行った。帰郷する兵士が飛行機に乗った。ビジネスクラスのビジネスマンが自分の席を譲った。こんな話が忘れられそうになれば報道される。米軍は募兵制を施行する。兵士はみな職業軍人だ。自ら進んで職業として選んだ兵士なのに、そこまで感謝を示す必要があるだろうか。ある人はこう解釈する。「米国は帝国主義国家であり、軍隊のおかげで得るものが多いので、当然感謝しなければならない」

百歩譲って、そのような見方と解釈が正しいとしよう。それなら企業の職員、弁護士、コンピュータープログラマー、パイプ修理工は帝国主義に寄与していないのか。彼らには、市民が感謝を示さないことについて、どう解釈すべきか。

軍人が特別な職業であるのは、責任と義務を果たすためには命をかけなければならないからだ。再び反論すると、命の危険にさらされる職業はかなり多い。いや、そうではない職業は、ないのかもしれない。しかし、軍人、消防士、救助隊、警察のような職業が特別な理由は、職業的責任と義務を遂行するために命の献身を要求するからだ。

ペルシャ軍と対立して戦い、全滅したスパルタの300人の戦士を称えるテルモピレーの碑銘は、「不屈の勇気」で勇敢に戦ったとは書かれていない。「我々は彼ら(国)の命令を履行し、ここに横たわっている」と書かれている。だからこそ、今も人々に感動を与える。

最近、韓国社会は病気になっている。他人には責任を強要しながらも、自分は苦労して犠牲になろうとはしない。責任と義務を果たすための他人の苦痛と苦労には冷淡であり、自分の苦痛には憤慨する。結果的に悔しがる人ばかりが溢れている。これを説得し、調整し、真の解決策を模索しなければならない人々は、怒りだけを煽り、怒りだけが唯一の解決策であるかのように教える。そんな方々に言いたい。命まではねがってもいない。身の毛ほど残っている良心の命令にでも従えと。