盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が11日、予定になかった記者懇談会を要望し、卞良均(ビョン・ヤンギュン)元大統領府政策室長問題について、「話す言葉もない」と述べた。盧大統領は、「信頼していた人への信頼が崩れた時、それがどれほど困惑することか、皆さんも見当がつくだろう」とも言った。しかし大統領は、卞氏のために困惑するかもしれないが、国民は大統領のために困惑する。
自分の味方でなければ言葉を選ばず罵倒し、自分の側近は無条件に庇護する盧大統領の一貫した行動が、「卞氏による困惑」を招いた。国家指導者の痛ましい姿を世界が見ていると思うと、韓国国民も恥ずかしさに困惑する。
大統領府は、国政の最高司令塔であり、公職の表象である。歴代政権が、大統領府内に別途の民情や司正組職を置き、大統領の親戚や側近参謀の不正を監視してきたのもそのためだ。表象がけがされ、公職社会が動揺し、司令塔が揺れ動けば、国政は漂流せざるをえない。盧大統領も、民情秘書官を置いている。しかし、本来の機能はほとんど果たせなかった。国民はその原因が、「襟を正す」姿勢とは程遠い現政権の徒党意識と資質が疑われる人材構成のためだと考える。大統領の認識からしてそれでは、参謀たちは言うまでもない。
大統合民主新党の党内選挙候補として出馬した柳時敏(ユ・シミン)前保険福祉部長官は11日、東亜(トンア)日報のインタビューで、長官時代を振り返り、「国民に委任を受けた権限だが、(まるで)フリーランサーのように働いた」と告白した。今回の卞氏事件で明るみになった大統領と参謀たちの意識がまさにそうだ。米国のトルーマン元大統領は、「大統領は責任という無数の鎖に縛られており、自分が大統領という事実を一時も忘れてはならない」と述べた。大統領の言行に公と私が別にあるわけでない。警護室が24時間、大統領をガードする理由もそのためだ。
しかし、盧大統領が私的感情の虜になったかのように行動したことは、一度や二度ではない。今回も、一部マスコミがかなりの根拠を持って、大統領の側近に関わる疑惑を提起したが、盧大統領は、「私とマスコミの対立関係から始まった可能性もある」と方向を変え、「まるで小説のようだ」というレトリックで逆攻勢をかけたものの、困惑すべき立場になった。このようなレベル、このような振る舞いの大統領は、もはや出てきてはならない。






