
興宣大院君・李昰應(フンソンテウォングン・イ・ハウン、1820〜1898、朝鮮後期の王族・政治家)に関する韓中日の史料を総合した史料集が出版された。
全4冊で出版された『興宣大院君の史料彙編』(ヒョンオム社)は、大院君から5代目の「本家の長」である李清(イ・チョン・70)氏の長年の努力が実を結んだものだ。同本は、韓国の「承政院(スンジョンウォン・朝鮮時代の王命出納機関)日記」や中国の「清季中日韓関係史料」、日本の「日本外交文書」などの韓中日の公式史料と、明成皇后(閔妃)殺害に加わっていた日本のジャーナリストである菊池謙讓が書いた「大院君伝」など、10種の史料に載った大院君関連記録をまとめ、原文と翻訳文を一緒に載せた。
同本を編纂した主体は、李清氏が私財を投じて設立したソクパ学術研究院だ。李氏は、大院君の長男である完興君(ワンフングン)の李載冕(イ・チェミョン、後に李熹と改名)氏のひ孫にあたる。日本の広島原爆投下のさいに亡くなった4代目の本家の長であった李ウ氏と、李氏の死後帰国して雲峴宮(ウンヒョングン・大院君の私家)を守り1995年に亡くなった「雲峴宮の女主」 朴贊珠(パク・チャンジュ)氏との間に生まれた一人息子でもある。
李清氏は、本の前書きで「すでに出版されている本に描写された内容と親戚から耳にした内容が一致していないような気がしていた」と述べた。また、大院君、高宗(コジョン、1192〜1259、高麗の第23代王)、純宗(スンジョン、1874〜1926、朝鮮の最後の王)に対するろくな伝記さえない現実が嘆かわしく、その基礎史料として同本を編纂することになった」と述べた。しかし、李氏は「生涯、マスコミとのインタビューを嫌がってきた」と、インタビューの要請を最後まで断った。
大院君はその波乱万丈な生涯ほど、韓中日の史料でもその人柄と業績に対する評価が、たびたび食い違っているのが見受けられる。
たとえば、清の実権力者だった李鴻章の報告者では、 壬午軍亂(イムオクンラン、1882年、旧式軍隊の変乱)直後には「彼の人柄はずる賢く、暴力的だ」と書いてあったにも関わらず、その2年後の甲申政変(カプシンジョンビョン、1884年、開化勢力が起こした政変)直後の報告書では、「朝鮮人はいずれも脆弱だが、 李昰應のみ勇ましい気概がある」と記したり、「彼の才気は右に出るものがない」と褒め称えている。
編纂作業を主導した権錫奉(クォン・ソクポン)前中央(チュンアン)大学教授は、「編纂作業を行い、 大院君の生涯には人間の栄辱のすべての権力化と劇的要素が入り混じっているため、決して簡単にアプローチするわけにはいかないことを、改めて実感した」と述べた。
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