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フェルトとの友情が、ニクソンを辞任させた

フェルトとの友情が、ニクソンを辞任させた

Posted June. 03, 2005 06:36,   

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▲「偶然な出会い」から友情に〓エール大卒業後、海軍に入隊し中尉で勤めていた私(ウッドワード)は1970年、文書伝達のためホワイトハウスに寄った時、控え室である伸子の隣に座ることになった。

当時、除隊後の進路問題を悩んでいた私は、彼に声を掛けながら助言を求めた。彼は自分の身分と電話番号を教えてくれた。

ワシントン・ポスト入社が確定される前、小さな新聞社に勤めていた時も、ちょっとした時間さえあれば彼に電話をかけたり、バージニアにある彼の自宅を尋ねたりした。彼はお父さんのように助言を惜しまなかった。新聞社に対しては、「深みがない」と評価した。あの時、私は、フェルト副長官が、いつかは(深層記事を書くのに)助けてくれる時が来るだろうと思った。

1971年、ワシントン・ポスト入社後、フェルト副長官によく電話をかけた。ある日、彼はエグニュ−副大統領が事務室で2500ドルのわいろを受け取ったという情報を知らせてくれた。一日中取材したが確認はできなかった。ところが、2年後、事実であることが明らかになり、エグニュ−副大統領は辞任した。

1972年、大統領候補予備選挙に出たアラバマ州知事が狙撃され怪我をする事件が発生した。狙撃犯は現場で逮捕された。フェルト副長官に電話をかけると、彼は「狙撃犯が他の候補も殺害しようとした」ことを知らせてくれた。この記事は1面トップを飾った。

▲ウォーターゲート事件のディープスロートに〓1972年、ウォーターゲート事件の取材中、犯人の手帳に書かれた「ハワード・ハント」という人物を追跡しながらフェルト副長官に電話をした。彼は、「事務室で電話するのはまっぴらごめんだ。(その事案は)熱い争点になるはず」とだけ言った後電話を切った。

再び電話をかけた。彼は神経が尖っていた。彼は、「オフ・ザ・レコード(非報道)」を前提に、「ハントが主な容疑者だ」と言った。

その後もフェルト副長官と接触しようとしたが、彼は電話に出なかった。家も尋ねたが、彼は、「電話も、家に尋ねて来てもいけない」とスパイたちが使う接線方法を教えてくれた。

彼は、「普段は君のアパートのカーテンを閉めておきなさい。ある日、カーテンが開けられていれば、その日は私たちが約束した場所で会おうという信号にしよう」と提案した。私は他の提案をした。普段は植木鉢に赤い旗をさしておいて、急いで会う必要がある時は、バルコニーの先方にあるその植木鉢を後方へ移しておくことにした。植木鉢を移しておいた日には、地下駐車場で午前2時に会うことにした。

彼は重要な用事があれば、私の家に配達されるニューヨーク・タイムズの20面に円を描いて、時計の針でその晩に会う時間を知らせてくれるとも言った。

▲フェルトの情報提供の動機は何か〓ウォーターゲートのように取材競争が熾烈で状況が複雑な事件には、情報源の動機を考えてみる時間がない。情報が事実であるかどうかが重要であるだけだ。

フェルト氏がどうして危険を冒してまでそのようなことをしたのか、考えてみたのは後のことだった。連邦捜査局(FBI)ファイルを外部に漏らすのは不法だ。フェルト氏はFBIファイルの一部を流出し、ニクソン大統領を圧迫する方法で、FBI組職を保護すると信じた。彼は、ニクソンが政治的理由でFBIを操ろうとすることを軽蔑していた。

また、フーバー元長官死亡後、外部からニクソン忠誠派の人物がFBI局長に任命されると、彼は衝撃を受けた。フェルト氏は、自分がフーバーの後任者にならなければならないと信じた。

第2次世界大戦中、スパイ業務を管掌した彼は、ゲームが好きだった。彼の頭の中では、私は彼の要員(agent)だったかも知れない。実際にスパイを教育するかのように、私に秘密遵守など様々なことを教えた。

フェルト氏に、(なぜ情報提供をしたのかとう)質問をするたびに、彼はいつも同じ答をした。「私は私の方式どおりこの仕事をしなければならない。」

一方、ウッドワード現編集局次長は同日、ワシントン・ポスト・インターネット版と別途のインタビューを持ち、「フェルト副長官が提供した情報の中には、時には間違った内容もあった」と言った。



孔鍾植 pisong@donga.com kong@donga.com