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[オピニオン]柳成龍と李舜臣

Posted July. 13, 2003 22:09,   

柳成龍(ユ・ソンリョン、朝鮮時代中期の官吏)の「懲鋆録(チンビロク)」を読むと、朝鮮は実に情けない国だった。大韓海峡に戦雲が立ち込めているのに国防を蔑ろにし、日本軍に破竹の勢いで押された。驚くべきことは当時の指導層の混乱である。北上する日本軍を討伐に行った朝鮮の将軍は敵の情勢を知らせてくれた農民の首から刎ねた。デマを飛ばし官軍を動揺させたというのがその罪だった。倭軍に敗退した官軍は通り過ぎる義兵を残滅した。混乱を乗じて、反逆を図ったという罪だった。

◆こんな状況ではむしろ滅んで当然の国なのに、朝鮮は結局日本軍を追い出した。何がこれを可能にせしめたのか。国が逆境に瀕した時、大物が出てきたからだ。領議政(ヨンイジョン、朝鮮時代最高の官職)まで勤めた柳成龍は、雨降る泥んこの道端に跪いて、中国・明の将軍李如松の前で叱責された。軍糧米の調達が遅れたという理由でだ。こうした屈辱を彼は黙々と受け入れた。国を救うのに自分の個人的な屈辱は何でもないと考えたのだ。明の海軍提督である陳璘は、気にいらない朝鮮官吏の首に縄をかけて引きずり回したという。陳璘が朝鮮艦隊と合流するために南に発つと、朝廷は大いに緊張した。だが、ここで私たちは李舜臣(イ・スンシン、朝鮮時代の名将)提督の意外な面を発見する。陳璘を厚くもてなし、遠海まで迎え出たのはもちろん、日本軍50人の首を陳璘に上納した。

◆柳成龍と李舜臣提督の行動は一見、卑屈なように見えるが、国を救うためには自分を低くした深いわけを伺うことができる。だが、当時彼らとは対照的な人物がいた。通信使の副使として1590年に日本に行った金誠一(キム・ソンイル)である。彼は徹底して自分を前に押し出し、行く先々で手厚い接待を受ける。だが、帰国後、黄允吉(ファン・ユンギン)と違って「日本は侵略の意図がない」と主張したが、その理由が傑作である。反対の党派に属する黄允吉が戦争の脅威を強調するあまりに民心が乱れることを恐れて、そうしたというのだ。国の安保よりは自分が属する党派のコードに忠実だった人物のために、その後朝鮮は戦渦に巻き込まれる。

◆先の例とは対照的なケースとして、自己主張を押し出すこととコード合わせに汲々する今日でも、教訓を得ることができる。過去、民主化運動をして国を治めることになった「参与政府」の人事は、過去よりは未来に、同士よりは国民に目を向けるべきだ。そして、国家のためには、自分のイデオロギーや対面は後回しにすることができなければならない。また、自分と考えが同じ人にコードを合わせて、その人たちとだけ統治哲学を共有するよりは、柳成龍や李舜臣提督のように、コードが違う人とも協力して頭を下げる知恵が必要だ。

安世英(アン・セヨン)客員論説委員(西江大学教授)syahn@ccs.sogang.ac.kr