60年5月1日、米国の偵察機U2が、旧ソ連領内のスヴェルドロフスク近くでソ連のミサイルに撃墜された。パキスタンのペシャワルを発進し、ソ連の領土を東西にわたってノルウェイに帰着するはずだった。操縦士のフランシス・ゲリー・パワーズ氏はソ連の捕虜となった。それから4カ月後に米ニューヨークの国連総会で、当時のソ連共産党書記長だったフルシチョフは、靴を脱いで壇上をたたきながら米国を非難する「冷戦時代の代表的なシーン」の一つを演出した(だが、米国で大学教授をしていたフルシチョフの一人息子は昨年『靴事件の具体的な証拠はない』と主張した)。
◆およそ兵器というのはすべてそうだが、U2機は特に激しかった冷戦対決が生んだ産物と言える。50年代後半にフルシチョフは西欧諸国に対して、「私たちがあなたたちの葬式をあげてやる」とうそぶき、西欧諸国はこうした脅迫を非常に深刻に受け止める雰囲気だった。そうでなくても57年に、ソ連のスプートニク衛星発射に驚いた米国は、長距離爆撃機部門ではソ連が自国を圧倒しているのではないか、という恐れを持っていた。当時のアイゼンハウワー米大統領は何としてでも「鉄のカーテン」の中を覗き見ようと試みたし、その一つの方案としてアラン・ダラス中央情報局(CIA)局長にU−2機の開発を直接指示したのだ。
◆U2機開発で核心の課題は、敵の兵器が及ばない高度の長距離飛行をどう実現するか、ということだった。このためにロッキード社の秘密開発チームは飛行機の羽の幅を奇形的に長くしたり、機体を最大限軽くするためにあらゆる知恵を振り絞った。その結果、56年7月に最初のソ連領空飛行でU−2機は地上20km上空を悠然と跳びながら、追撃してきたソ連の迎撃機を泣きものにした。その後U2機は62年に、キューバに配置されたソ連のミサイルを探知するなど数多くの活躍をし、米国の情報戦で大きな存在となった。
◆一昨日、京畿道華城市(キョンギド・ファソンシ)でU−2機墜落事故が起き、この飛行機が再びマスコミの注目を浴びている。私たちの日常は平和なようで、見えない空のあの果てには、今この瞬間も激しい情報戦が行われていることを改めて気づかせる事故だった。まして今回の事故は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核疑惑で韓半島危機説がまだ鎮まっていない時点で発生したためか、さらに状況が難しいように感じられる。韓半島が「冷戦の孤島」という不名誉な汚名を脱ぎさり、U2機の偵察飛行がもうこれ以上必要ない日が、いつごろ来るのだろうか。
宋文弘(ソン・ムンホン)論説委員 songmh@donga.com






