スポーツの起源が戦争だという説がある。殺し合いの流血劇をスポーツが取って代わったということだ。アルゼンチンとイングランドのサッカー・ワールドカップ(W杯)の試合は、この説を裏づける。
「イングランドとのサッカーの試合は、もはや試合ではない」(アルゼンチンの日刊紙ラ・ナシオン)
82年のフォークランド戦争(アルゼンチンではマルビナス戦争と呼ぶ)以降、W杯で2度の両国の「戦争」が起こった。10週間続いたフォークランド戦争で、イギリス人は700人のアルゼンチン人を殺害して(イギリスの犠牲者は約200人)勝利したものの、W杯戦争では、アルゼンチンが全勝している。
「神の加護があるので、私たちが勝つ」(アルゼンチンのある旅行社代表)
「受けた屈辱に対して、報復する」(イングランド代表選手テディ・シェリンガム)
フォークランド戦争20周年を迎える今年、日本の札幌で行なわれる7日の試合を前に、両国はまるで戦争準備をしているかのようだ。
午後0時30分に試合が始まったロンドン市内は、まるで空襲警報が鳴ったかのように、急に人影がなくなった。イギリス人はこの試合をともに応援するために、TVが設置されたバーに集まった。社員の欠勤を防ぐため、あえてホテルの会議室を借りて、試合を視聴する会社もあった。イギリスのスーパーマーケットチェーン店のセーフウエィは、口こう清浄剤がいつもより25%以上も売れたという。
午前8時30分に試合が始まったアルゼンチンでは、残り2試合が終わるまでは公式の休暇となっている。小・中学校の講堂には、TVが設置された。ある教師は「これほど愛国心を植えつける教育は他にはない」と語った。
1200人の警察官が、ブエノスアイレスにあるイギリス大使館やイギリス系企業の周辺に配置された。
62年以降の両チームの戦績は、2勝2敗。62年のチリ・ワールドカップの組別リーグで顔を合わせた両チームは、イングランドが3対1で勝利。1891年にイギリスからサッカーを初めて輸入したアルゼンチンで、この試合結果に憤慨した報道はなかった。
両チームの反目は、66年にイングランドで開かれた準々決勝から始まった。この試合で、アルゼンチンの主将アントニオ・ラティンは、荒々しいディフェンスで退場命令を受けたが、激しく抗議して10分間もグラウンドから出ようとせず、イングランドチームを憤激させた。イングランド選手は、試合後の伝統的な慣例であるユニフォーム交換を拒んで、アルゼンチン選手たちを「動物」と非難した。
フォークランド戦争から4年後の86年に開かれたメキシコ・ワールドカップの準々決勝で「サッカーの神童」マラドーナは「神の手」というニックネームをつけられたが、アルゼンチン選手たちは悪らつなトリックも辞さないチームであると、イングランド選手の頭に焼きついた。2対1でアルゼンチンが勝ったこの試合で、マラドーナは手で初ゴールをきめたが、審判がこの場面を見ていなかったので、ゴールと認定された。
その後12年の間、W杯で遭遇する機会がなかった両チームは、98年のフランス・ワールドカップの16強戦でまた衝突した。格闘技を彷ふつさせる激戦で、デービッド・ベーコンがレッドカードを受けて退場、PK戦にもつれ込むかと思われたが、接戦のすえアルゼンチンが4対3で勝利した。
当時、アルゼンチンチームがスタジアムの外に待機していたバスに乗って、意気揚々と去る姿を眺めたイングランドチームのベーコム選手は「屈辱的だった」と、今もその時の憤りが冷めていない。
イギリスの反アルゼンチン感情を反映するように、イギリスではアルゼンチン産のワイン販売が16%も減少した。一方、今回の試合に関心が集まり、単一試合では史上最大規模である1450万ドル(約175億ウォン)の賭け金が集まった。
イングランドの決戦意志に対して、86年のイングランド撃破以来、アルゼンチンの国家的英雄となったマラドーナは「今回の試合で、イギリス人がいかに怖気づいているかを明らかにする」と述べ「サッカーシューズの中の足は震えている」と嘲笑した。
アルゼンチンチームのゴールキーパー・パブロは「今回の試合は、アルゼンチン人が待ちに待った試合だ。82年の戦争で友人や家族を亡くした人々には、なおさらである」と述べた。
両チームの試合は、もはやサッカーではなかった。
洪銀澤 euntack@donga.com






