筆さえ持てば何でも絵になる。どんな領域でも自由な天衣無縫の画筆で、独創的な境地に至った雲甫(ウンボ)金基昶(キム・ギチャン)画伯が23日他界した。昨年末、未堂(ミダン)徐廷柱(メEジョンジュ)詩人の他界に続く訃報で、わずか一月の間に韓国詩壇と画壇の二人の巨木が我々のもとから去っていったことになる。実に一つの時代の送別であり、たやすくその後を埋めることができない、心痛む惜別である。
雲甫先生は昨年12月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)から来た末の弟、基万(ギマン)氏(北朝鮮公勲画家)と病床で50年振りに心痛む筆談での再会を果たした。弟の基万氏は、北の大地で兄の訃報を聞いて痛哭することであろう。兄弟の短い再会と長い別れは、民族分断の痛みを今一度我々に思い出させる。
7才の時、腸チフスで聴力を失った雲甫先生の一生は、耳が聞こえず、話すこともできない障害の苦痛を乗り越えた偉大な人間の勝利であった。1931年、18才の時に朝鮮美術展覧会に入選して以来、先生はその沈黙の深淵の中から何と1万点余りの作品を残した。それにも増して先生は、10年周期で自身の作品世界を革新するという驚くべき創造性と活火山のような情熱を我々に見せてくれた。
細筆から始まり、韓国山河の精気を水墨の濃淡と単純な色彩で力強く描いた青緑山水、朝鮮時代の民画の情緒と庶民のユーモアを大胆に、そして諧謔的に阜サしたパボ(馬鹿)山水画を経て、晩年の雑巾絵に至るまで、実に具象と抽象の世界を筆の行くまま自由に飛翔した。
「パボというのはまだできていないものであり、芸術も終りがないもので完成された芸術はない。だからパボ山水画を描くのだ」という雲甫先生の言葉は、大家の金言に他ならない。たとえ日帝末期に親日的な行動があったにしても、それが先生の光輝く業績に影を落とす理由にはならない。
聞くことができず、話すことができなかった雲甫先生は障害者福祉にも格別な関心を傾け、1979年韓国聾唖福祉会初代会長を引き受けて、1984年には忠清北道(チュンチョンプクト)の鋻原(チョンウォン)に「雲甫の家を」建てた。そして、そこで聾唖者に陶磁器の技術を教えて自立できるように手助けをする等、聴覚障害者の権益擁護の先頭に立った。
聴覚障害者の恨(ハン)を絵画に昇華させた雲甫先生の生涯は、それ自体が後世の人に与える価値ある教訓だ。また、先生が生前に見せた不屈の芸術魂は永遠に鑑となるであろう。
雲甫先生のご冥福を心よりお祈りする。






