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22年間被ばく体験を語り続ける広島の梶本淑子さん「都市全体が火葬場のようで、地獄でした」

22年間被ばく体験を語り続ける広島の梶本淑子さん「都市全体が火葬場のようで、地獄でした」

Posted July. 18, 2022 09:15,   

Updated July. 18, 2022 09:15

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「戦争を知らず、原爆を知らない人々が政治をしています。弱者が犠牲になる戦争を始めてはいけません」

1945年8月6日、人類史上初めて実戦に使われた原爆の被害を広島で体験した被爆者の梶本淑子さん(91)は、「日本は核を保有しなければならないという主張がある」という外信記者の質問に、このように答えた。

梶本氏は2000年から22年間、広島平和記念館で被爆体験を証言するボランティア活動をしている。2019年11月に広島を訪れたローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇に会い、原爆投下70年だった15年には英国の上下院議会でオンラインで被爆体験を伝えた。日本フォーリンプレスセンターの主催で、広島で韓国など外信特派員と会った梶本さんは14日、第2次世界大戦での残酷な戦争体験を証言した。

「小学5年生の時、太平洋戦争が起こりました。私は、軍国主義教育を受けた世代です。先生は『正しい戦争なので、日本が勝てば世界が平和になる』と教えました。食べるものがなくても、孤児になっても、全て戦争のために頑張らなければならないと叫びました」

政府と軍部が国民の口を塞いだ記憶も昨日のことのようだ。

「当時は治安維持法で取り締まった時代です。父が家で『この戦争で日本は負ける』と言うと、母が『そういう話は下手をすると大変なことになる。外で言ってはいけない』と言った記憶が鮮明です。戦争に反対する話はできなかった時代でした」

広島に原爆が落ちた時は中学3年生だった。国家総動員令により、当時梶本さんは飛行機プロペラ部品工場で働いていた。作業していた時、窓の外が白く光り、普段の訓練どおり目、耳、鼻を両手で押さえ、床にうつ伏せになった。

「地球が爆発するような轟音が起こった後、天井と壁が崩れ、そのまま気を失いました。目が覚めて外に出てみると、腐った臭いが漂っていました。魚市場の魚のように死体が道端に転がっていました。都市全体が火葬場のようで、地獄でした」

原爆の爆発は一瞬だったが、梶本さんの苦しみは一生続いた。翌年父親が原爆後遺症で死亡し、母親は20年間、病院に通って苦しんだ。幸い、若い頃に体に問題はなかったが、「被爆者と結婚してはいけない」、「被爆者は放射能のため障害児を産む」と差別を受けた。孫の具合が悪い時は、「私が被爆したためではないか」と自らを責めたという。

梶本さんは、「日本は戦争で負けた。終戦と言いたいだろうが敗戦だ」とし、「日本が一日でも早く戦争を止めていたなら、このような残酷なことは起こらなかっただろう」と話した。


広島=イ・サンフン特派員 sanghun@donga.com