
家が静かだという言葉は、たいてい平穏を意味する。だが、ある家の静けさは平穏ではなく、「待つこと」を意味する。この詩が見せる風景がまさにそうだ。山の前にも後ろにも草が生い茂り、外へ出ては戻り、また門を閉ざす暮らしが続く。
この詩は孤独を大げさには語らない。ただ門を開け閉めする場面だけで、事情は十分に伝わってくる。毎日門の外へ出るのも、ひょっとすると心の寂しさを紛らわせる何かを探すためなのかもしれない。とはいえ、行く当てが多いわけでもない。なんとなく門の外をうろつき、なんとなく遠くをもう一度眺めてしまう。本当に心を打つのは最後の場面だ。詩人は自宅に閉じこもるだけでなく、村の老人が子や孫を気遣う姿を眺めている。他人の家族の情は慰めにもなるが、同時に自分の空白をいっそう鮮やかに照らし出す。喜びは伝染するが、孤独もまた、比較の中でよりくっきりと浮かび上がる。
昔も今も、親の心はそれほど変わらない。子どもが元気でいてくれればうれしい。それでも、一度くらいは門を開けて帰ってきてくれたら、なおうれしい。この詩が長く人の心に残るのも、おそらくそんな素朴な真実に触れているからだろう。家の周りでは草が伸び、詩人の胸の中では待つ思いが伸びていく。
山の前も後ろも、一面に青々と草が茂り、
終日、門の外を歩き回っては帰り、また門を閉ざす。
血を分けた身内が遥か遠い空の彼方にいると思うたび、
戸口の外に出て、子や孫の世話をする田舎の老人を眺める。
(山前山後是靑草、盡日出門還掩門。每思骨肉在天畔、來看野翁憐子孫。)
「北郭閑思」 曹鄴(そうぎょう、816~875ごろ)






