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凍てつく大地と硝煙

Posted December. 23, 2025 10:05,   

Updated December. 23, 2025 10:05


2025年が暮れようとしている。硝煙の中で、また一年を終える国もある。人は誰しも、平和で満ち足りた暮らしを願う。家族が囲む夕食の食卓には、笑いと冗談が絶えない。子ども同士が言い合いをし、父が顔をしかめ、母が苛立つことがあっても、毎日そうして騒がしく過ごせる家族こそ、本当に和やかな家族だ。質素な食べ物を手に訪ねてきた隣人は、そんな光景をうらやましそうに眺め、微笑みを残して帰っていく。

クリスマスが近づくと、街には寄り添う恋人たちよりも、むしろ忙しく孤独な人々の姿が増える。華やかな街並みやきらめくショーウィンドーは、彼らに日常以上の疎外感を与える。それでも、未来への希望が「願い」という形で残り、その疎外感に耐える力となる。かつて、暗い塹壕の中で寒さに震えながらも、その希望を失わなかった時代と兵士たちがいた。夜が明ければ、明日になれば、何かが変わる――その思いは、理性に基づかない幻想にすぎなかったのかもしれない。だが、希望を手放さない力が、常に昨日より少しでも良い世界をつくってきたのも事実だ。

一方で、世界の別の場所には、もう一つの幻想がある。何かを呪い、排除し、報復すれば、より平和で安定し、正義に満ちた世界が訪れるという幻想だ。前線の塹壕でそう考える兵士もいれば、豪奢な食卓で杯を傾けながら、あるいは暗い路地に立ち、同じ言葉を口にする者もいる。

人が思い描く幸福な瞬間は共通している。だが、それを実現する方法、すなわち世界の幸福を妨げる障害をどう判断し、どう取り除くかは人それぞれだ。その違いが、社会的な怒りや暴動、戦争を生む。破壊と人間性の喪失という苦痛の中で、ある者は素朴な夢を抱き、またある者は妄念に満ちた怒りを抱える。いまの世界には、性急な憤りと暴力的な幻想が噴き上がっている。2026年は、人類にとって試練の年となるのではないか。