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「許せないなら無理に許さないで」 神父が語る心の回復と新刊エッセイ

「許せないなら無理に許さないで」 神父が語る心の回復と新刊エッセイ

Posted December. 04, 2025 09:53,   

Updated December. 04, 2025 09:53


「敵を愛してはいけません」

司祭がどうしてこんなことを?最近癒しのエッセー「最後まで自分を愛する心」を出版したホン・ソンナム・マテオ司祭(カトリック霊性心理相談所長)は先月28日、ソウル明洞(ミョンドン)大聖堂で東亜(トンア)日報の取材に応じ、「心が受け止められないことをすると、病気になります」と語った。同書は、美しい言葉で心をなだめるヒーリングエッセイではない。アルコール依存症から自殺衝動にまで至った自分との激しい闘いを描いた自伝的物語だ。そのため「戦闘的癒しエッセイ」とも呼ばれる。

――司祭なら「敵をも愛せよ」と言うべきではありませんか。

「宗教はいつも『許しなさい』『愛しなさい』と教えますが、人の心はそれほど広くありません。心にしこりがあるのに無理に許そうとすると、心の病を招きます。だから、自分が耐えられる範囲でだけ許し、それ以上は無理をしないようにと言うのです。私も以前は、祈りや瞑想をすれば心が広くなり、大きな人間になれると思っていました。でも、そうではなかったのです」

――祈りや瞑想は自我を昇華させる過程だと思いますが…。

「他人を包容するというのは、自分の自我が非常に健全な時にだけ可能なことです。けれどほとんどの人は(病院に行くほどではなくても)常に不安、憂うつ、怒りに苦しんで生きています。自分の舟が荒波で転覆しそうなのに、他人を乗せられますか。宗教もそれを強要してはいけません」

――宗教が強要していると。

「意外と『良い人コンプレックス』に陥った人が多いんです。例えば借金をしてまで人を助けて、そうできなければ自分の信仰が弱くて犠牲や献身ができないのだと苦しむ。そうして神経症的な病になるのです。誰に対しても無条件に善良に生きろと言うのは、宗教として危険だと私は思います。その人の状況を見るべきなんです。精神的にも物質的にも極めて困窮している人は、まず自分自身を満たさなければなりません」

――とはいえ司祭なのにアルコール依存や自殺衝動を告白するのは…。

「司祭だから良い言葉だけ浴びるわけではありません。信徒から非難も罵声も受けます。それを酒で晴らしているうちに、ある日ミサの最中に手が震えました。アルコール依存症の初期だと言われ、無気力症にもなりました。それに信仰を理由に自分をひどく虐待していました。『なぜ祈りに集中できない』『なぜそれしかできない』と責め続けたんです。これが酷くなると『毒性羞恥心』になります。」

――毒性羞恥心とは。

「自分を責めると羞恥心が生まれますが、これが度を超えると毒性に拡大し、『自分のような者は死んでしまった方がいい』という考えに至る。それが極端な選択を誘発します」

――司祭はそれを乗り越えたのですね。

「偶然、ある司祭と会いましたが、悩みの答えをくれるのではなく、『言いたいことがあるなら言ってみなさい』と言われたんです。もちろん一度でそうなったわけではありませんが、本当に下痢のように、心の底の底まで全部出ました。司祭は他人の相談や告解は受けますが、自分の話を誰かに打ち明けたことはないでしょう。それが転機になりました。サンドバッグも叩きました。」

――サンドバッグ?

「無理に許せば自分が病みます。まず内なる怒りと恨みを解き放たなければいけない。私はサンドバッグに憎い人の名前を書いて思い切り叩きました。誰かが人のせいで怒っていたら、隣で『私が代わりに叩いてあげる』と言ってください。それだけでもずいぶん楽になります」


李鎭求 sys1201@donga.com