数年前、「前から読んでも後ろから読んでもウ・ヨンウ」と自らを表現したドラマの弁護士が話題となったことがある。自閉スペクトラム症を持つソウル大学ロースクールの首席卒業生として登場したその弁護士は、怒っている上司に対してさえ「司法」を「サッポプ」と誤って発音すると即座に正す。会議資料の誤字や誤った数字をすぐに直さないと喉に刺が刺さったような気分になる私としては、このシーンが何とも痛快であった。
言語哲学者のハーバート・ポール・グライスは、人々が会話をする際に暗黙裡に従う四つの規則を提示した。情報の量、質、関連性、表現方法である。第一に、多すぎず少なすぎず、相手の理解に必要なだけを述べる。二つを問われたのに一つだけ答えたり、必要のない話を冗長に続けてはならない。第二に、自ら偽だと考える内容、あるいは真と信じるに足る十分な根拠がない話はしない。意図的な嘘はもちろん、よく知らないのに知っているかのように断じることも規則違反である。第三に、発言内容は現在の会話の流れと関連していなければならない。いわゆる寝言を言ったり、的外れな返答をしてはならない。第四に、伝える内容は簡潔明瞭かつ論理的でなければならない。曖昧な表現を避け、秩序立てて分かりやすく述べなければならない。
一見すると当たり前のようだが、会話の参加者がこうした規約に従うと、不要な誤解を避け、本当の意味で意思疎通が可能になる。逆に言えば、わが社会の不通は、こうした基本的な会話規約が守られないために生じているのではないか。最近とりわけ深刻なのは、情報の質、すなわち真実性の規則の違反である。人工知能(AI)が不正確な情報や勝手に作り上げた架空の事実を提示すると、「ハルシネーション(Hallucination=幻覚現象)」だと大騒ぎする一方で、有力政治家や厚いファンダムに支えられたユーチューバーが事実ではない情報を拡散することには、あまりにも寛大な傾向がある。
意図的な虚偽の流布ではなかったとしても、本人が真だと確信していたとしても、不正確な情報は公共の討議空間をかき乱す。国際学術誌「政治コミュニケーション」に2015年掲載された論文は、虚偽情報が訂正された後でも残響効果を残すと報告し、これを「信念のエコー(belief echo)」と名付けた。例えば、ある政治家が犯罪者から献金を受けたという記事を見せた後、訂正記事を通じてその献金者が実は犯罪者と名前が似ているだけの全く別人であったと知らせたとしても、訂正記事を見た人々は、その政治家が犯罪者の支援を受けなかったという事実を理解しながらも、最初から誤った記事を見なかった人々に比べ依然として否定的な態度を維持した。つまり、頭では潔白だと分かっていても、一度形成された否定的印象は容易に消えないのである。
最近、国民的関心が集まった事件をめぐり、責任ある立場の人物が基本的な事実関係も確認せず、まずメッセージを投じ、問題となりそうになると謝罪文を出す例をしばしば見る。まさに法廷で熟練した弁護士が裁判長の制止を受けると知りながらも、陪審員に影響を及ぼすために被告に有利な質問を投げる戦略に似ていると言えるだろう。一度耳に入った内容を聞かなかったことに戻すのは、それほど困難だからである。
しかし、政治家が党派的利益のために世論を操る目的で故意に虚偽情報を流しているのでないならば、ファクトチェックは事後ではなく発言前に行われるべきである。自分が知っている内容が誤りであり得ること、記憶は歪んだり不完全であることを認めるならば、大きな波紋を呼び得る発言に先立ち、事実関係を綿密に確認するのが当然である。その意味で、真実性規約の遵守は、自身の誤謬可能性を受け入れるメタ認知、そして新しい情報を開かれた姿勢で受け入れる知的謙虚さと直結している。
二人の女中が争い、互いに自分が正しいと主張したとき、黃喜(ファン・ヒ)政丞は双方に「お前の言い分は正しい」と答えた。善し悪しは総合的判断の領域だからそれも理解できるとしても、誰が「先に手を上げた」のかという事実関係は確認すべきではなかったか。同様に、検察の大庄洞(テジャンドン)事件控訴放棄についての判断は異なり得るとしても、その過程で法務部がどんな役割を果たしたのか、検察捜査に強圧はなかったのか、大庄洞業者は本当にプレミアリーグのクラブオーナー級の富豪になるのか、徹底して事実を解明しなければならない。ハンス・ロスリングが強調した「事実に基づく思考(ファクトフルネス)」は、単に個人に求められる市民的素養ではなく、持続可能な社会を実現するための不可欠な条件だからである。
アクセスランキング