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信仰と背教の間、茶山の本心は

Posted December. 07, 2024 08:48,   

Updated December. 07, 2024 08:48


1795年7月、天主教を信奉したという理由で金井察訪に左遷された茶山(タサン)丁若鏞(チョン・ヤクヨン)は、急遽、忠清南道保寧(チュンチョンナムド・ボリョン)を訪れた。背教を証明するには、天主教の指導者、李存昌(イ・ジョンチャン)を捕まえろという正祖(チョンジョ)の命令によるものだった。聖居山に隠れ、何年も忠清道の観察使でも検挙できなかった李存昌は、一人の官員だけを連れて行った茶山にあっさりと捕らわれた。

いったい何があったのか。古典学者である漢陽(ハン・ヤン)大学国文科の鄭珉(チョン・ミン)教授は、新刊『茶山の日記帳』(キムヨンサ)でこのミステリーに対する新しい視点を提示する。天主への信仰と王への忠誠の間で生涯苦悩した茶山が、信仰から完全に離れられなかったことを示す事例だということだ。鄭氏は、「多くの信徒の助けを受けた李存昌が何の抵抗もなく捕らえられたのは、すでに茶山と天主教側の間に事前の交流があったことを意味する」と分析した。

実際、この事件が茶山と李存昌の「出来レース」であったことをある程度裏付ける文献資料も残っている。王の言動を日々記述した日省録の1797年2月23日付の記録には次のような文章がある。「李存昌は一昨年、金井察訪(茶山)の廉察(密かに探問すること)に引っかかり、監獄に入れられた。供招(罪人の犯罪事実の陳述)を見ると、前日に反省したことと相反する。それなら、供招は心から出たものではない。李存昌が釈放された後も古い習慣(天主教信仰)を改めなかったことが分かる」。

茶山のこのような行為は、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」(2016年)を思い起こさせる。この映画は、徳川幕府の天主教弾圧が激しかった17世紀前半、ポルトガル人イエズス会宣教師の苦悩を描いた。劇中、幕府はロドリゲス神父に背教を強要し、日本人信者たちを残酷に拷問、殺害する。結局、ロドリゲス神父は信者たちを救うために自ら背教を選択し、その後、幕府の監視を受けながら40年余り日本で暮らし、息を引き取る。

ところが、ラストシーンで映画「シックスセンス」級の展開が繰り広げられる(ネタバレ注意)。幕府の監視の下、仏葬によって火葬される棺の中で、小さな十字架を握っているロドリゲス神父の手がクローズアップされるのだ。幕府の弾圧でやむを得ず背教したが、生涯彼の内面に信仰が根付いていたことを示す象徴的なシーンだ。もしかすると、茶山も表向きは背教を宣言したが、ロドリゲス神父のように密かに天主教信仰を守っていたのではないだろうか。

実際、茶山が正統性理学の軌道から離れ、朝鮮後期ルネサンスを導いた実学を集大成することができたのは、天主教をはじめ、西洋の学問と科学技術を統称した西学の影響が大きかった。にもかかわらず、茶山の背教後、天主教信仰が彼の人生全体に及ぼした影響をきちんと注目した研究は稀だった。これについて鄭氏は、「国学界は茶山が天主教に影響を与えたが、自ら出たのでこれ以上関連付けるのは不純だとし、天主教界では茶山が背教者なので関心がない」と説明した。

偉大な芸術作品のキャラクターには善と悪の両面が共存するように、歴史上の人物を英雄か裏切り者かの二分法だけで接近するのは限界がある。世の中を一刀両断の白黒論理で接近することが危険であることを、私たちは3日夜に経験したではないか。