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38度線、北朝鮮軍の動き

Posted June. 18, 2024 09:09,   

Updated June. 18, 2024 09:09


1950年6月17日から38度線の以北地域が忙しくなり始めた。もともと北朝鮮は38度線に警備隊と保安隊の兵力だけを配置していたが、主に咸鏡道(ハムギョンド)と平安道(ピョンアンド)に駐留していた8つの師団が次々と投入され始めたのだ。8つの師団の移動配置は21日までに終了した。作戦命令と侵攻開始時間はすでに将校たちに下達されていた。

沈黙を守っていたが、秘密は守れなかった。数人の北朝鮮軍が、部隊が38度線に配備された隙をついて脱走し、侵攻情報を知らせた。24日、陸軍情報部は北朝鮮の全面的な「南侵」が明らかだと結論を下し、チェ・ビョンドク参謀総長に報告した。同時に24日に下した非常待機解除と全軍外出、外泊令の取り消しを提案した。

チェ氏はこれを拒否し、特殊チームを派遣して適正を検討し、25日午前8時までに報告するよう指示した。北朝鮮の南侵警告は以前から発令されていた。3月危機説、5月危機説。おかげで全軍に非常待機が継続的に発令され、兵士たちは限界の状況だった。チェ氏はこれが負担だったという。

チェ氏の悩みも理解できる。しかし、本質的な問題があった。3月、5月に北朝鮮軍の主力は38度線から遠く離れていた。北朝鮮軍の移動など侵攻の兆候を探知するシステムを構築することが先決だった。当時はそれほど難しくはなかった。

当時、韓国軍は全面戦争に備えた防衛システムが全く整っていなかった。米国は支援を拒否し、政府はお金がなく、国会は政治遊びが優先された。このような状態で、噂ばかり聞いて、兵士たちを苦しめた。外出、外泊も柔軟に運営できたのに、兵士だけを戦時状態のように追い込んだ。典型的な見せかけの対応だった。

肝心の陸軍本部の人事、その他の政策は、戦争準備とは逆に動いていた。4月に全軍の師団長を一斉に交代させた。思考や行動に一貫性がなく、常に政治的論理が働いた。二度とこのようなことがないことを願う。