「ソウルの春」と韓米関係の教訓
Posted January. 30, 2024 08:18,
Updated January. 30, 2024 08:18
「ソウルの春」と韓米関係の教訓.
January. 30, 2024 08:18.
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最近、映画「ソウルの春」を一緒に観た高校生の息子が、「12・12クーデターをなぜ防げなかったのか、まだ理解できない」と話した。多くの観客が同じことを尋ねたことだろう。一部では、韓国軍の作戦統制権を握っていた米国がクーデターを防ごうとしたのか、そうではないのなら、なぜそうしたのかという疑問を提起する人もいる。クーデター発生の根本原因は、大抵、体制内部にある。12・12クーデター当時の米国の動きを振り返ることは、時代遅れの反米主義の変奏ではない。それよりも、血盟に例えられる韓米関係も大義名分と実利の綱引きという外交の本質から抜け出せないことを再認識するためだ。ジョン・ウィッカム元在韓米軍司令官が1999年に出版した回顧録によると、79年12月12日夜、盧載鉉(ノ・ジェヒョン)国防部長官(当時)が米第8軍のバンカーに避難し、ウィッカム氏と共にいた。韓国軍と在韓米軍の最高指揮部が偶然にも一緒にいたのだ。同日、反乱軍鎮圧に乗り出した張泰玩(チャン・テワン)首都防衛司令官が、李建栄(イ・ゴンヨン)第3軍司令官に要請した首都機械化歩兵師団と第26歩兵師団は、ウィッカム氏の作戦統制権の下にある部隊だった。しかし、ウィッカム氏は、「まだ暗いので、鎮圧軍と反乱軍との誤認衝突は避けられない」と、盧長官に部隊の移動を許可してはならないと言った。第9師団長だった盧泰愚(ノ・テウ)氏が、前方の第9師団を無理矢理ソウルに進入させた状況でこのような決定を下したのは、米国が最初から新軍部を鎮圧する意思がなかったことを示すという指摘が出る理由だ。米国は決定的瞬間になぜ反乱軍鎮圧を止めたのか。これに対して、ウィリアム・グライスティーン駐韓米国大使(当時)は回顧録で、「12日夜と13日未明に北朝鮮を刺激する韓国軍同士の衝突と、民間政府が転覆して韓国の政治的自由が崩壊することの2つを防ぐことに優先順位を置いた。しかし、2つのうち前者を特に警戒した」と書いた。韓国軍部の内戦を利用した北朝鮮軍の韓国侵略とクーデターによる民主政の崩壊を防ぐことが米国の目標だったが、何よりも安保を最優先したということだ。米国が道徳外交で強調する「民主的価値」を放棄して「安保利益」を選んだということだ。皮肉なことに、当時のカーター政権は歴代どの米大統領よりも道徳主義外交を掲げたという点だ。カーター氏は77年の大統領就任演説で、反共を標榜した同盟国であっても人権を弾圧する権威主義政府は擁護できないという考えを明らかにした。これに対し、米国は79年、カーター氏の訪韓を控え、在韓米軍撤退をテコに6ヵ月間、180人の良心の囚人を解放するという韓国政府の約束を取り付けた。ワシントンのこのような雰囲気は、10・26直後に発生した79年11月の「イラン人質事件」で急変した。中東で主要な同盟国を失った状況で、東アジアで共産主義陣営に対抗する米韓同盟さえも危うくすることはできないというムードが広がった。同年12月27日、ソ連のアフガニスタン侵攻も、韓半島の安保を安定的に管理しなければならないという現実主義者の声に力を与えた。だからといって、米国が韓米関係に国益だけでアプローチしたわけではない。50年代、戦略的利益が大きくなかった韓半島で約14万人の自国民を犠牲にして韓国戦争に介入したのは、共産圏の一方的な侵略を傍観しないという道徳主義外交原則によるものだった。北朝鮮の侵略を阻止し、経済繁栄をもたらした韓米同盟の裏には、道徳主義と現実主義外交が併存している。このことを直視して状況に応じて柔軟に対応しなければならないというのが、12・12クーデターの教訓ではないだろうか。
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最近、映画「ソウルの春」を一緒に観た高校生の息子が、「12・12クーデターをなぜ防げなかったのか、まだ理解できない」と話した。多くの観客が同じことを尋ねたことだろう。一部では、韓国軍の作戦統制権を握っていた米国がクーデターを防ごうとしたのか、そうではないのなら、なぜそうしたのかという疑問を提起する人もいる。
クーデター発生の根本原因は、大抵、体制内部にある。12・12クーデター当時の米国の動きを振り返ることは、時代遅れの反米主義の変奏ではない。それよりも、血盟に例えられる韓米関係も大義名分と実利の綱引きという外交の本質から抜け出せないことを再認識するためだ。
ジョン・ウィッカム元在韓米軍司令官が1999年に出版した回顧録によると、79年12月12日夜、盧載鉉(ノ・ジェヒョン)国防部長官(当時)が米第8軍のバンカーに避難し、ウィッカム氏と共にいた。韓国軍と在韓米軍の最高指揮部が偶然にも一緒にいたのだ。同日、反乱軍鎮圧に乗り出した張泰玩(チャン・テワン)首都防衛司令官が、李建栄(イ・ゴンヨン)第3軍司令官に要請した首都機械化歩兵師団と第26歩兵師団は、ウィッカム氏の作戦統制権の下にある部隊だった。しかし、ウィッカム氏は、「まだ暗いので、鎮圧軍と反乱軍との誤認衝突は避けられない」と、盧長官に部隊の移動を許可してはならないと言った。第9師団長だった盧泰愚(ノ・テウ)氏が、前方の第9師団を無理矢理ソウルに進入させた状況でこのような決定を下したのは、米国が最初から新軍部を鎮圧する意思がなかったことを示すという指摘が出る理由だ。
米国は決定的瞬間になぜ反乱軍鎮圧を止めたのか。これに対して、ウィリアム・グライスティーン駐韓米国大使(当時)は回顧録で、「12日夜と13日未明に北朝鮮を刺激する韓国軍同士の衝突と、民間政府が転覆して韓国の政治的自由が崩壊することの2つを防ぐことに優先順位を置いた。しかし、2つのうち前者を特に警戒した」と書いた。韓国軍部の内戦を利用した北朝鮮軍の韓国侵略とクーデターによる民主政の崩壊を防ぐことが米国の目標だったが、何よりも安保を最優先したということだ。米国が道徳外交で強調する「民主的価値」を放棄して「安保利益」を選んだということだ。
皮肉なことに、当時のカーター政権は歴代どの米大統領よりも道徳主義外交を掲げたという点だ。カーター氏は77年の大統領就任演説で、反共を標榜した同盟国であっても人権を弾圧する権威主義政府は擁護できないという考えを明らかにした。これに対し、米国は79年、カーター氏の訪韓を控え、在韓米軍撤退をテコに6ヵ月間、180人の良心の囚人を解放するという韓国政府の約束を取り付けた。
ワシントンのこのような雰囲気は、10・26直後に発生した79年11月の「イラン人質事件」で急変した。中東で主要な同盟国を失った状況で、東アジアで共産主義陣営に対抗する米韓同盟さえも危うくすることはできないというムードが広がった。同年12月27日、ソ連のアフガニスタン侵攻も、韓半島の安保を安定的に管理しなければならないという現実主義者の声に力を与えた。
だからといって、米国が韓米関係に国益だけでアプローチしたわけではない。50年代、戦略的利益が大きくなかった韓半島で約14万人の自国民を犠牲にして韓国戦争に介入したのは、共産圏の一方的な侵略を傍観しないという道徳主義外交原則によるものだった。北朝鮮の侵略を阻止し、経済繁栄をもたらした韓米同盟の裏には、道徳主義と現実主義外交が併存している。このことを直視して状況に応じて柔軟に対応しなければならないというのが、12・12クーデターの教訓ではないだろうか。
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