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他人の手を握る

Posted June. 27, 2022 09:07,   

Updated June. 27, 2022 09:07

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「ああ、狂っている、この滑稽で、分からない世の中よ!見て、彼女がどれだけ生きたがっているのか、彼女がどれだけ捕まえたいのか」(エリザベス・ストラウトの短編「上げ潮」)

主人公のケビンは、自ら命を絶とうと13歳で離れた故郷を訪れる。適当な場所を探していた彼は、幼い頃に自分を教えたオリーブと偶然出会う。この時から、人生を終えようとする彼の計画は崩れる。くだらない話を切り出す昔の先生が早く行ってほしいと思いながらも、彼女が離れないことを願うもう一人の自分のためだ。

世の中がどれほど「狂って(insane)」、「滑稽で(ludicrous)」、「分からない(unknowable)」についてはよく知らないが、これ一つは明らかだ。戦争と疾病、様々な災害があげ潮のように迫ってくる状況で、絶望と無力さを感じないことは不可能に近い。

しかし、私たちは周辺を成して生きているのではないか。周辺で増える「水」は、より簡単に気づくことができる。家族と友人、職場の同僚、時には町内の銭湯で毎週会う高齢者もこれに該当する。口数が減った家族、カカオトークメッセージの中の言語がひどく乱れた友人、垢すりタオルで頬だけをこすっている高齢者…。至る所に隠れた救助信号は、そのほとんどが些細で隠密で、私たちを通り過ぎてしまう。余計なおせっかいだろうか。そうかもしれない。しかし、不可解な渦からあなたの周りを救い出せないよりはましだろう。

逆に、あなたがどうしようもない上げ潮の中にいたら、どうか救助信号を送ろう。結局、ケビンは、同じ幼稚園に通っていたパティが海に落ちたのを目撃しては、危険千万な絶壁に降りることになる。自殺しようとしていた人が、他人を助けようと喜んで動くこの場面がぎこちなく感じられるかもしれないが、見てよ。私たちがどれだけお互いを捕まえたいのか。