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流れる川のように

Posted December. 13, 2021 08:27,   

Updated December. 13, 2021 08:27

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(11)[オピニオン]流れる川のように

「人生はただ流れる推移を知るだけだ。概念がこの推移を横切り、鋭利な境界を消す」(ドイツ法哲学者グスタフ・ラートブルフの『法学の精神』)

法は、実生活で起こる紛争を解決する実用的なものだが、法学自体は難解な概念の学問だ。精緻な概念の定義が学問の始まりであり終わりだ。概念で重武装した法律家は、刃物のような人たちだ。同じ事案なら「ネロナムロ(自分(ネ)も他人(ナム)もロマンス)」か「ネブルナムブル自分も他人も不倫)」だけが許される。「ネロナムブル(自分がやればロマンスだが、他人がやると不倫)」は、法律家の頭の中ではありえない。有効でなければ無効、有罪でなければ無罪だ。愛でなければ不倫、正義でなければ不義だ。愛しながら憎むことはできない。これが法の存在理由だ。世の中は非常に複雑で曖昧なので、誰かが「これが正義だ」と宣言しない限り、一歩も先に進むことはできない。しかしこの地点がまさに法の限界でもある。人間は決して善と悪、正義と不義などで区分されて概念定義される簡単な存在ではないためだ。

法を学び、世の中の道理をはじめて知ったことに感激したが、ある時考えが変わった。法は世の中を理解する道具ではなく、ただ支える手段にすぎない。何をもってしても人間の暮らしを明確に定義することはできない。世の中は、正確な描写が不可能な巨大な流れだ。

法律家として生き、ラートブルフの言葉を理解するようになった。私たちは、人生の推移だけを認知できるにすぎない。これすら容易ではない。私が正しい方向に進んでいるのか集中しなければならない。さもなければ一瞬にして不義の流れに流されてしまう。長く法廷で目にした具体的な戦闘で、善は悪に力不足だった。しかし、大きな流れでは善にも勝算がある。善は大義に向かって進むためだ。重要なことは、絶えず方向を模索し、とどまらないことだ。善と正義に向かった推移を失う時、そこがまさに地獄だ。