
はたして、三国時代初の燒廚房(宮殿で食べ物を作る空間)は見つかったのだろうか。
20日、文化財庁傘下の国立夫餘(ブヨ)文化財研究所がメディアに公開した全羅北道益山市王宮里(チョンラブクド・イクサンシ・ファングンリ)の遺跡発掘現場では、異例に「真実ゲーム」が繰り広げられた。学術諮問のために現場を訪れた教授陣が、文化財庁の発表内容について次々と疑問を提起したのだ。
文化財庁は発掘現場の公開に先立って、メディアに配布した報道資料で、「先月、ユネスコ世界文化遺産に登録された益山王宮里遺跡について発掘調査した結果、朝鮮時代王宮の水刺間に喩えられる百済泗沘(サビ)期王宮の厨房(廚)の跡が確認された。これまで、百済を始め、新羅や高句麗の遺跡から王宮内厨房の跡が見つかったことはない。報道資料が事実なら、昨年、百済歴史遺跡地区の世界文化遺産への登録に続き、三国時代の王宮の燒廚房が初めて確認された歴史的発見と言える。
夫餘文化財研究所側は同日午前、益山王宮里現場でのメディア向け公開会で、百済時代の焼厨房という証拠として、建物の跡地内の楕円型のくぼみから見つかった鉄製の釜2点や壺などの土器5点、砥石3点を示した。釜や壺、砥石共に、その様式や製造方法から、百済時代の厨房道具であることが調査の結果分かったという。さらに瓦で取り囲んだ窪みの傍から見つかった火に焼けた土や壁体、床に敷かれた炭は、火を焚いて食べ物を調理していたかまどの痕跡だと、研究所側は推定した。
しかし、現場を訪れた諮問団教授4人中3人は、この遺跡は厨房の跡でない可能性が高いとみており、1人だけが可能性があると明らかにした。
厨房の跡ではないという主張の根拠としてはまず、窪みの中から釜や壺などと共に、農機具の鉄製の鍬の刃や斧が一緒に出てきたことだ。厨房道具とは無縁な農機具をなぜ、土に一緒に埋めたのかという疑問が生じる。また、研究所側がかまどと推定している遺構(昔の土木建築の構造や様式がわかる手がかりとなる痕跡)に、石や土でかまどを固めて積み上げた痕跡がなく、穴だけ開いていることも見過ごせないという指摘だ。
忠南(チュンナム)大学の朴淳發(パク・スンバル)教授(考古学)は、「遺構や遺物について総合的に考えれば、まるで廃棄物を処理したかのように、使い切った調理道具や農機具を一ヵ所にまとめて、窪みに詰め込んだかのように見える」と説明した。さらに、朴教授は、「ここは最初から、建物ではなく、露天状態の遺構だった可能性が高い」と語った。厨房と推定されるという文化財庁の発表に真っ向から反ばくしたのだ。
また、厨房の跡だと明らかにした遺構が、今回一緒に見つかった細長い形の長廊形建物の敷地のすぐそばに位置していることも疑問だ。長さ29.6メートル、幅4.5メートルの長廊形の建物の跡は王が政務を取り仕切っていた正殿と近い上、中から硯などが出土され、臣下たちが王を待ちながら、業務を手掛けていた場所と推定される。業務空間のすぐ隣に、このような厨房を作る前例はなかなかないという分析だ。
諮問団教授陣の相次ぐ指摘について、夫餘文化財研究所の関係者は、「水刺間とまではいかなくても、厨房であることに間違いはないような気がする」と一歩下がった。これと関連して、文化財庁がセキュリティなどを理由に、事前に詳しい学術諮問を経ず、報道資料を先に配布したのは適切でない行動だという批判が出ている。
諮問に応じたとある専門家は、「先月、ユネスコ世界文化遺産に登録された益山王宮里の発掘成果を必要以上の拡大解釈すれば、国際的に大恥をかかされることもありうる」と言い、「政府や地方自治体はもっと慎重になる必要がある」と指摘した。






