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[オピニオン]徳寿宮と慶運宮

Posted December. 05, 2011 07:54,   

徳寿宮(トクスグン)は20世紀初め、韓国が日本に国権を奪われる過程で重要な事件が起こった激動の現場だ。1896年2月、高宗(コジョン)が秘密裏に景福宮(キョンボククン)を離れ、徳寿宮近くのロシア公使館に避難するいわゆる「俄館播遷」が起こった。翌年、ロシア公使館を出た高宗が新しい居住地としたのが徳寿宮だった。当時は慶運宮という名称だった。近くに米国、英国、ロシアなどの外国の公館が集まり、非常時に備えた決定だった。

◆高宗は1897年、ここで大韓帝国を宣言し、皇帝の座に就いた。1905年、日本に外交権を奪われた乙巳保護条約が締結された場所も、徳寿宮内の重明殿だった。1907年、オランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使派遣を話し合った場所も徳寿宮だった。ハーグ密使事件直後、高宗は日本によって退位させられた。その後に続いた純宗(スンジョン)は昌徳宮(チャンドククン)に移ったが、高宗は徳寿宮に残った。「徳寿」は、皇帝の父である「上王」を意味する言葉だ。純宗が即位した直後の1907年8月6日、朝鮮王朝実録に「徳寿宮」という単語が出てくるのを見れば、純宗がこの頃、父親の高宗が住む場所の名称を慶運宮から徳寿宮に変更したようだ。

◆徳寿宮という名称を慶運宮に戻そうという議論が文化界の一部で起こっている。日本植民地支配の残滓という理由からだ。先週、文化財庁の主催で公聴会が開かれた。ソウル都心に位置する徳寿宮では、1960、70年代、小学生の美術大会や作文のイベントがよく行われ、画家の登竜門だった国展の開催場所だった。李ヨンフンが作曲した歌「光化門(クァンファムン)恋歌」に出てくる「今はもうすべて/時の流れとともに/跡形もなく変わってしまったけれど/徳寿宮の石塀の道にはまだ残っている/親しげに歩いていく恋人たち」という歌詞のように、中年以上の世代は、徳寿宮の石塀の道という言葉で、若い日のかすかな思い出を呼び戻す。

◆慶運宮に再び変えようという側も、それなりに名分があるだろうが、徳寿宮という名称にはすでに多くの市民の人生が入り込んでいる。「徳寿宮の石塀の道」を「慶運宮の石塀の道」に変えては、あの時の懐かしさは感じられない。名前に込められた「生活の歴史」も大切な歴史として維持されることを望む。

洪賛植(ホン・チャンシク)論説委員 chansik@donga.com