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[社説]常識外れの判決の後に「司法の独立」の一言

[社説]常識外れの判決の後に「司法の独立」の一言

Posted January. 22, 2010 08:17,   

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社会に波紋を広げている事件に対する一連の無罪判決を見守った国民は、頭の中が混乱し心細くなる。姜基甲(カン・ギガプ)民主労働党代表の国会での暴力、全国教職員労働組合(全教組)の政治声明、MBC報道番組「PD手帳」の狂牛病歪曲報道に対する無罪判決は、司法府の裁判がまるで国民の健全な常識とはまったく別に進められているかのような印象を与えるのに十分だ。

このような司法の姿に対し、李容勳(イ・ヨンフン)最高裁判所長官は、「司法府の独立を揺るぎなく守り抜く」と禅問答のような一言を口にした後、黙り込んでいる。多数の国民が無罪判決の背景や理由について疑問を呈している重大な状況で、最高裁長官が一言の対応で事を済ませようとしたら、司法府はいったい誰のために存在しているのか。これは李最高裁長官が言った「国民に仕える司法府」ともかけ離れている。

司法権の独立は判事のためのものではない。法治の守護者である裁判官が内外の圧力に屈せず、憲法裁や法律、そして良心に従って裁判をするよう保障するためのものだ。裁判官の裁判は、憲法と法律、確立された判例と学界の通説に沿って、物事の筋や健全な常識にそぐわない解釈を基にしなければならない。問題の裁判官に対しては、かえって偏った意識で憲法と法律に反する判決を出したという批判が法曹界で出ている。

理念的に偏っているか、予め結論を出しておいて論理を作る判決、または法律的な素養が足りない判決は、公論の批判を受けて当然である。李最高裁長官は、裁判官と裁判の間違いを是正し、制度的な隙間があったのなら、それを補完しつつ、国民信頼の回復に向け取れる措置があるのなら法曹界の意見を汲み上げて急いだ方がいい。間違った裁判に対する批判が、まるで司法権の独立を揺るがすことであるように言うのはお門違いだ。

司法府は広い意味で法秩序維持の中心軸を担っている。国会議員が議事堂で振るった暴力や全教組の政治的な集団行動、刺激的な歪曲・偽りの報道を助長するようになったという批判に対し、李最高裁長官は重い責任を感じるべきである。司法府の一部でも「判決に問題があれば、上級審でやり直せば済むこと」という安易な言い方をしている場合ではない。

保守派団体のメンバーらが判事の自宅に駆けつけてデモをしたのは間違いだ。判決が気に入らないからと言って、裁判官を脅すような行為は司法権の独立と法治というさらに大きな価値を損ねることだ。司法府の改革も政党が攻撃するように進めるよりは、司法府と法曹界の内部で十分議論を重ねた上で推進するのが筋である。