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ML直行→特級投手→墜落→復活 朴賛浩の「栄辱の16年」

ML直行→特級投手→墜落→復活 朴賛浩の「栄辱の16年」

Posted November. 24, 2009 08:20,   

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「WBCもうまくやって、レギュラシーズンでもうまくやれる自信がない。これから太極旗をつけることはない。フィラデルフィアで予定されていた入団の記者会見が、仲間選手の薬物服用の疑いが浮き彫りになり、取り消しになった。今、私の位置が、こんなもんなんだという気がして、残念だった」(09年1月13日)

「来年、先発で出場できるチーム、どうせなら、ワールドシリーズに進出できそうなチームでプレーしたい。球団が再契約を望んでいると聞いた。フィラデルフィアでなくても、他のチームから連絡が、来るという自信があった」(09年11月10日)

朴賛浩(パク・チャンホ、36=フィラデルフィア)は10日、帰国記者会見で、終始笑顔を見せた。秋信守(チュ・シンス、クリーブランド)に息子を産むノウハウを聞いてみたという冗談も言うなど余裕の様子だった。10ヵ月前の彼は、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の出場にファンの関心が高まると、急いで帰国し、開いた記者会見場で、熱い涙を流した。

1994年、韓国人として初めて大リーグに進出した朴賛浩は、毎年シーズンが終わる度に、故国に帰ってきた。世界最高の野球舞台にコリアン・ルーツを切り開いた開拓者の訪問はいつも話題の的になった。彼の入国当時の状況と表情は、まちまちだった。今年1月の悔しさの涙が、11月余裕の笑みに変わったように、朴賛浩の帰国記者会見は、彼の当時の状況をそのまま反映した。

朴賛浩は、1994年、LAドジャーズ入団後、大リーグへの進出で話題を呼んだが、2試合でマイナーリーグに降格された。1994、95年を主にマイナーリーグで送った彼は、年末になると韓国へ帰ってきたが、それほど大きな話題にはならなかった。静かに故郷へ戻り、休むのが日程のほとんどだった。彼が96年、5勝(5敗)を収め、可能性を見せた後、帰国した時は、野球ファンとマスコミの関心が高くなった。

1997年には、てんてこ舞いの毎日だった。フル出場の大リーガーとして活躍し、14勝(8敗)を収めた朴賛浩はまさに英雄だった。11月11日、故国の地を踏んだ彼を一目見ようと、空港には歓迎の人が殺到し、空港はもちろん、彼が泊まるホテルにも専用の警護チームが配置された。彼は韓国に滞在する20日間、大統領府を訪問し、様々な放送番組にも出演するなど、忙しい日程をこなした。

1998年、15勝(9敗)を記録した彼は、バンコクアジア大会の代表選手に選ばれた後、10月に帰国し、「金メダルの他には考えたことがない」と覚悟を決めた。代表チームの金メダルをけん引した翌年の1999年、彼は13勝(11敗)をマークした。00年には、当時、アジア投手最多勝記録の18勝(11敗)を記録し、特級投手としての座を固くした。熱い取材争いは、つき物だった。彼はインタビューで「20勝」や「ワールドシリーズ出場」などの目標を自信に満ちて語った。

しかし、彼は02年、複数年契約を結んだテキサスへ移籍してから、スランプに陥った。負傷で足を引っ張られた彼は、03年1勝、04年4勝に止まった。シーズン終了後、韓国を訪れたが「ファンに申し訳ない」と謝罪の言葉を真っ先に言った。1試合出場に止まった07年には、初めて極秘故国もした。

朴賛浩が、来年プレーするチームはまだ決まっていない。先発でプレーできる可能性は、未知数だ。1年後、朴賛浩は、どんな表情で故国ファンと顔を合わせるだろうか。彼は今年初めて、ワールドシリーズに出場した。しかし、「シーズン20勝」の目標は、「東洋人投手最多勝」へ目標を見直すしかなさそうだ。



hanwshin@donga.com