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左利きの宣銅烈

Posted July. 15, 2006 06:22,   

梅雨前線が活発だった12日、ソウルから慶尚南道馬山(キョンサンナムド・マサン)へ向かう道路の上空は千変万化だった。激しい雨が降りつけ、大邱(テグ)を通る頃には、雲の合間から光が見え、馬山ではまた曇った。

19年の短い人生だが、台風と陽射しが交差したユ・ヒョンジン(ハンファ・写真)が思い浮かんだ。彼はロッテとのアウェーゲームのため、馬山へ来ていた。仁川(インチョン)で生まれ育ったユ・ヒョンジンがトンサン高時代に経験した台風は、思春期の少年の心を根こそぎ揺るがしたほど強力だった。チェ・ヨンファン・トンサン高監督は、「その台風がユ・ヒョンジンを強くした」と回考した。

●高校1年生に大きな負傷を乗り越え、「ポーカー・フェイス」の異名も

よちよち歩きを始める時から野球グローブを持って遊んだという「野球少年」ユ・ヒョンジンは、仁川チャンヨン小学校4年生の時、野球部入団テストで優れた実力をみせ、当時、イム・ウイル監督を驚かせた。野球が好きだった父親のユ・ジェチョン(50)さんのおかげで、選手になる前にすでに基礎はすべて磨かれていたのだ。トンサン中に通う時、身長が170cmをはるかに越え、トンサン高1年生だった03年には、直球最高球速が時速137kmも記録した。当年9月に行われたミチュホール旗高校大会で、彼はトンサン高マウンドを守り、チームが準優勝するのに大きな貢献をした。彼の野球人生は前途洋々だった。

ところが、同大会が終わった後、左ひじに痛みを感じた。急に暗雲が群がってきた。6カ月間の通院治療。翌年になっても良くならなかった。ソウルの有名な整形外科で、ひじの中に入っていた骨のかけらを見つけた。04年4月に手術した後、また7カ月間のリハビリ。毎朝バスに乗って、学校でなく病院に行った。仁川の自宅からソウル松坡区芳荑洞(ソンパグ・パンイドン)まで往復5時間。夜明けに家を出、夜おそく帰った。一度もボールを投げられぬまま、2年生の1年が流れていった。

ユ・ヒョンジンは、「ポーカー・フェイス」と言われる。感情が顔に表われない。打者との気争いで勝たなければならない投手には特に必要な部分だが、19歳の若者がポーカー・フェイスとは。馬山の宿所で対座して眺めた彼の大きく丸い顔には、邪気はなく茶目っ気でいっぱいだった。

「その時代ですか。そうですね」

「それでも内心、たいへんだっただろう」

「はい」

「病院に行くバスの中で何を考えたの」

「べつに。早くリハビリを終え、友だちと野球しなくちゃと思いました」

「ずっとそれだけ」

「はい!あ、居眠りもしました」

長く苦しいリハビリが終わり、とうとう実戦野球を始めた。05年2月、全羅北道群山(チョルラブクド・クンサン)のトレーニング・キャンプでだった。1年以上の空白にもかかわらず、1イニングの投球で、最高球速が142kmも出た。彼自身もどうして球速がもっと速くなったのか分からないと言ったが、結局、努力のたまものではなかろうか。母親の朴スンスン(47)さんは、「ヒョンジンが1日5〜6時間のたいへんなリハビリを1日も欠かさなかったし、そのうえ、アパート11階の家まで歩いて上がった」と語る。

「地獄」から戻ってきたユ・ヒョンジンは思う存分自分の実力を披露した。当年、青竜(チョンニョン)旗高校大会では優勝の主役になった。しかし、負傷経歴が足を引っ張った。1次指名優先権のあったSKと2次指名を真っ先にできたロッテが相次いで彼を無視した。

「まる1日むかつきましたが、忘れてしまいました。まさか行くところが全くなくはないだろうと思って」

●目標18勝…投手3冠の可能性高く

ユ・ヒョンジンの楽天性は国家代表級だ。ハンファでユ・ヒョンジンは、「恵まれた人」として通じる。宣銅烈(ソン・ドンヨル、三星監督)以後、初の投手3冠(最多勝、平均自責、奪三振)も不可能ではない。その上、ユ・ヒョンジンは今この瞬間にも、アップグレードされつつある。最近には、チーム先輩の具臺晟(ク・デソン)から、チェンジアップとスライダーを伝授された。

「今年の目標は18勝。韓国一の投手になりたいです」

ユ・ヒョンジンの未来に対する予測はしばらくしないことにしよう。「コムテンイ(愚鈍な者という意味)」というニックネームを得たユ・ヒョンジンは、とにかく今は野球を一緒にする友だちがいるというだけで非常に幸せそうだから。



kimsk@donga.com