盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の弾劾審判請求が憲法裁判所によって棄却された。盧大統領は直ちに職務に復帰したが、今回の事件で得た教訓は大きくて奥深いものがある。懸念されていた国政空白や混乱が生じなかったため、韓国の民主主義が一段階成熟したことを示したという逆説的な評価もなくはないが、こうした事態は起きなくてもよいことだった。
国会の訴追権乱用問題を問う前に、国家の最高統治者の認識と言動がもっと慎重であったならば、国民は民生苦に国政不安まで重なった二重苦に悩まされなかっただろう。
#「憲裁の叱咤」、重く受け取るべきだ
憲法裁判所は盧大統領のヨルリン・ウリ党への支持発言、中央選挙管理委員会の決定を過小評価する発言、再信任を問う国民投票発言がすべて法と憲法に違反すると決定した。ただし、憲裁はこうした違法行為が罷免の事由になるほど重大ではないと判断した。国民が選出した大統領を罷免することによって、職務遂行の断絶とこれに伴う国家損失を甘んじてもよいほど深刻な違法ではないと見たのだ。よって、弾劾を主導した野党もこれに相当する反省があるべきだという指摘は正しい。さらに、政略的な意図で無理に弾劾を推し進めたとすれば、国民に謝罪すべきだ。
だからといって、盧大統領の責任まで軽くなったわけではない。経緯はどうであれ、弾劾の第1次的な原因提供者は大統領自身だからである。3月に選管委が盧大統領の発言に対して、選挙法違反の決定を下した時、絶対多数の国民は大統領が謝罪することを望んでいた。その時、謝罪さえしていれば、弾劾まで事態が悪化しなかっただろう。
盧大統領がもっと心を痛めて受け入れなければならない部分は、憲法と法律を軽視し、違反した言動に対する憲裁の叱咤である。大統領は法治国家を実現し、自由民主主義的な基本秩序の守護に努めなければならない憲法的な義務を持っている。
そうあるべき大統領が法を軽視したとしたら、社会の順法精神は崩れ落ちてしまうだろう。大統領はこうした指摘を謙虚に受け止めるべきだ。でなくても、就任以来社会のいたるところで「法治が崩壊しつつある」と懸念する声が高い。
#「再信任の負債」立場を明確にしなければ
憲裁の決定文はまた、盧大統領の再信任を問う国民投票発言に対して憲法守護の義務に違反したものだと釘をさした。これに対しても、大統領は謝罪すべきだ。憲法と法が認めてもいない再信任国民投票でその間国民をどれだけ不安がらせたのか。盧大統領は未だにこの問題に対して明確な態度表明をしないでいる。もはや整理すべきだ。国民が納得できるように謝罪し、国政に献身することで「再信任負債」を償うと約束すべきだ。
これからが大事だ。大統領であれ、与野党であれ、すべてを振り切らなければならない。再びこの問題を政略的に利用してはいけない。厳しい経済難の中で国民の暮らしはつらいばかりなのに、いつまで弾劾政治に振り回されてよい訳がない。大統領がまず変わったということを見せるべきだ。
こうした全ての混乱と葛藤が結局、最高統治者のリーダーシップの不在、放漫な言動の結果ではないか。弾劾という試練を経ながらも大統領がこれに気付かずにいるとしたら、まさに韓国の未来はない。業務と責任の果敢な分散を通じて、大統領の言動が国政の足を引っ張るようなことがあってはならない。
やはり経済と民生問題にまず取り掛かるべきだ。原油価格と原資財の値上がり、足踏みする設備投資、通りにあふれる失業者など、これより急を要する国政課題がどこにあるというのか。改革も日々の暮らしの問題に焦点を当てなければ意味がない。
もちろん改革もすべきだ。だが、改革を正しくしようとするなら、改革目標に対して国民の合意を求め、それによって具体的な改革プログラムを準備すべきだ。合意も、プログラムも、優先順位もできていないのに、大統領府、党、政府を問わず、後先構わずに飛び出す改革のキャッチフレーズに国民は疲れている。改革というのが一体、アパートにたとえれば再建築しようというのか、リモデリングをしようというのか、国民は戸惑うばかりだ。国民は改革の実験対象ではない。
#棄却決定が免罪符ではない
憲裁の棄却決定は盧大統領に対する免罪符ではない。法を守り、国民を敵味方に分けないで、一緒に団結して国家発展にまい進せよという注文だ。国民は「ノサモ(盧大統領を愛する人たちの集まりという意味の縮語)」の大統領ではなく、「国民の大統領」を望んでいる。弾劾事件を災いを福に転じるきっかけにするかどうかはまったく盧大統領にかかっている。






