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イラク国境の村「シャフワン」現地ルポ

Posted March. 27, 2003 22:09,   

26日午後、イラク国境が開かれた。

米英連合軍によるイラクへの攻撃開始6日目に、戦闘兵力でない民間人がイラクの地に足を踏み入れた。

クウェートの救護団体「赤新月社(Red Crescent)」が、大型トラック5台に「クウェート人がイラクの兄弟に捧げる」という文句が書かれた救護物資を積んで、イラク国境の村シャフワンに到着した。

クウェート市から80番道路に沿って北上し3時間足らずにある。国境線の鉄条網には、逆三角形の赤い表示板に白い字で「MINE(地雷)」と書かれてあった。非武装地帯では、紛争予防のためにここを守っていた国連監視団(UNIKOM)の要員のテントが目に入った。要員がみな撤収して空っぽになったテントには、青色の国連旗だけが風にたなびいていた。

救護トラックと取材車両約20台の北上行列の横には、小銃や弾丸、弾薬数千箱とTOW対戦車ミサイルなどをいっぱいに積んだ英軍の軍用トラック約20台も並んで走った。

国境を通過したが、クウェートとは何ら違わない砂漠地帯だ。しかし、生活は天国と地獄の違いだった。到着するや大騒ぎになった。この地域を管轄している英軍と赤新月社のボランティアたちは、この村の住民約500人が一度に殺到した、まさに必死の救護品争奪戦にお手上げの状態だった。トラックの後ろのドアが開かれると、青年2人がトラックの中に入って、救護箱を集まった人々に狂ったように投げた。靴が脱げ、箱が頭に当たった。箱を運ぶために自転車、手押し車、小型トラックなど、運ぶための手段が総動員された。

力の強い者はより多くを持って帰り、夫のいない女性たちは、子供の手を握って手ぶらで帰った。箱一つを得たナピル・アリフシンさん(23)は、「食べるパンがない。生活がとても苦しい」と語った。大人たちの間に入って、なんとかビニール袋一つを手にしたある子供は、すぐに紙パックを噛みちぎって、ジュースをゴクゴクと一気に飲んだ。

救護品は歓迎だが、戦争に対する村の住民たちの反応は困惑していた。約100人の住民は手を上げて「グッド・サダム(フセインはいい)」と叫んだ。住民のハシミードさん(22)は「米国は、イラク人たちの解放戦争だと言うが、同意するか」という欧米記者の質問に「解放感どころか屈辱感を感じる。米国は、私たちを解放させようとして来たのではなく、資源(resource)のために来た」と答えた。

顔がしわだらけのある老人が近づいてきて「米軍の空襲で家族2人が死に、残った者数人も大ケガをした。病院で治療を受けなければならない状態だ」と訴えた。

イラクの政権を握っているイスラム教スンニ派とは違いシーア派の人々は、91年の湾岸戦争の時、フセイン政権の崩壊を信じてマスコミを通じて米軍を賞賛した住民たちが、後に報復として虐殺された記憶が今でも鮮明だ。ある住民は記者に近づき、周りの人に聞こえない小さな声で「サダム・フセイン、ノー(No)、ノー」と言って、手で首を切るしぐさをした。

大半の住民は、救護品争奪戦の渦中でも、記者がカメラを向ければ顔を覆って手を振った。トラックのドアを開けてから1時間20分でトラックの中が空っぽになった。しかし、家に帰る住民の表情には、依然として戦後の未来に対する不安感が覆っていた。



金晟圭 kimsk@donga.com