Go to contents

光復洞の路地裏で北野武に会っても…映画評論家シム・ヨンソプの釜山映画祭体験記

光復洞の路地裏で北野武に会っても…映画評論家シム・ヨンソプの釜山映画祭体験記

Posted November. 06, 2002 23:12,   

あたかも共有できない死の運命星のように、自分にとって映画は一緒に見ても皆がばらばらに見る行事だった。映画に「狂った」ある後輩は、はなはだしきは映画館の中でだけは、誰と一緒に座るとか、ポップコーンを食べることさえ拒んでいたけど、その時だけは普段曲がっていた彼の背筋もピリピリと伸びていたし、自らが自らを支えていた。

釜山(プサン)国際映画祭で、私は徹底的に逆の歩き方をする。映画評論家という業ゆえに、その気にさえなれば大抵の映画はタダで見れるのだが、いったん口コミで噂が立ってキップを手に入れるのが難しくなった作品であるほど、大半はそのまま通り過ぎる。旋風を起こした映画であればあるほどバブルは大きかったし、映画館のゲスト席は、大部分が知り合いたちで埋め尽くされがちなので、まるで露天の辺りで行われる町の行事に参加した感じを受けたりもした。また、そういう映画であるほど全国封切りを前にした大型のものがほとんどなので、後から見てもいいからだ。

「花火」「4月の物語」などは、日本映画開放禁止という鎖に縛られていため、逆にバブルがひどかった数々の映画は、虚像の波で私を迷惑した。そういう映画を映画祭で見るというのは、まるで厚化粧の女と一晩寝た後の翌朝に目覚めたときの気持ちとでも言えようか?

釜山映画祭で、私は、常にゴージャスな料理でご馳走される王様になる。その気にさえなれば、一日に3、4作品を暴食してもいいし、それらを酒のさかなにして知人たちと海辺の刺身店で焼酎の杯を傾けながら品評会を開いたりもする。

しかし「その、ある映画」に出会うと、私はそうすることができなくなる。心は当てもなく海浜の風にあたりながらさ迷い、映画に奪われた体は自分がどこにいるのかさえ忘れてしまう。

ビデオで焼き付けたような画面ではなく、フィルムで迎えた「阿飛正伝(欲望の翼=Days of Beijing Wild)」を見たとき、青磁の暗さとエメラルドの透明さとがお互い体を交えた孤独な緑色の上を鳥が飛び、張國榮は下着姿で鏡の前に立って一人マンボを踊った。その後、私は、時々、都市の空を分ける足のない鳥を見たりする。ホウ・シャオシエン(侯孝賢)監督の「童年往事・時の流れ」が与えてくれた悲しみ、西区映画とのスピード戦を完全に拒んだ作家は、のそのそとした足取りで主人公たち霊魂を言葉なしにくみ上げていた。

こういう映画を見ている途中、また祝祭を楽しみたくなれば、一日に一本はコメディーやミュージカル、アニメーションを迎えて観客たちと興に乗じる。

ふと女性監督のクララ・ローに光復洞(クァンボクトン)の道端で出くわしたことを思い出す。彼女は、ボーイフレンドと手を握って歩いていたのだが、二人はいかにも一対のハトのようだった。以前、女性監督たちとの集いで大勢の監督たちと一緒に会ったはずだが、今でも私の記憶には、空が限りなく広かった「1967年シトロエン(The Goddess of 1967)」の画面と、穏やかにして真剣な人間関係をこっそりとのぞかせてくれた彼女がオーバーラップした印象が残っている。クララ・ローを見て、ヴィム・ヴェンダースとともに彼の「ミリオン・ダラー・ホテル」を見ること。それも釜山だけが私に与えてくれた贈り物だ。

恐らく大事なことは、一日に見た映画本数も、釜山が上映してくれた映画の本数でもなかろう。ヨーロッパだろうが、アジアだろうが、コメディーであろうとファンタスティックであろうと、映画祭の本質はそれぞれが求めるテーマの、見たいと思うような映画を上映し、見たい映画を見ればいいわけだからだ。

だから、今年の釜山で北野武やツァイ・ミンリャン(蔡明亮・Tsai Mingliang)監督に出会っても驚くことなかれ。作る人と見る人とが一つになるのが、また映画祭なのだから。釜山で私は、釜山の晩秋と海と映画一本だけでも満足できそうだ。その誰かに会えて幸せだったことと同じように、数多くの映画のなかで自分をとりこにするただ一本の映画に会っただけだとしてもだ。

釜山を本当に秋の序の口から冬まで終始「映画祭」で盛り上げているのは、何だったんだろうか。シュリやマスの夜など、なんでこんなにも魚の夜が多いのか、酒を水を飲むように空けては、学生たちが贈り物でくれた財布をなくしては、海辺に座り込んでわあわあと泣いたあの夜を一生忘れないだろう。

昨年の今ころ、子どもができたため、屋台で偶然に出会った金東虎(キム・ドンホ)委員長が渡す杯を最後まで受け取ることができなかった恨みも、今度は晴らしたい。半ズボンに口笛を吹きながらスリッパを引きずって、ポケットに手を突っ込んで近所を散歩する気持ちで出かけてみよう。恐らく、釜山映画祭の最も望ましい観覧方法は、記憶のページの中に釜山を差し込むことができるよう、今から思い存分に浮いて見ることではなかろうか。