サッカーは国民を熱狂させる。 青々とした芝の上で、しん気楼のような2つのゴールポスト間で繰り広げられる名勝負のシーンは、観衆の心をつかむ魔術である。現代を俗にスポーツ、スクリーン、セックスの「3S時代」と言われるが、その中でもサッカーが占める位置は確固不動である。最近の韓国とイングランド、フランスとの試合で、そのことは立証された。きょう行なわれるサッカー・ワールドカップ(W杯)の開幕戦でも、その熱気が再確認されるだろう。
恐らくこのようなサッカーの魔力は、人間に内在する原始的な勝負欲と深い関連があるようだ。もちろん、単純に勝負欲だけを刺激したからといって、人々を熱狂させることはできない。闘犬や闘鶏のように、1度かみついたら死ぬまで離さない動物的な勝負をみると、面白さの前に嫌悪感を覚える。サッカーは、そのような血なまぐさい無限の闘争ではなく、理性的なルールにもとづいたゲームというところに、より深い妙味があるのだ。
闘争とゲームの違いは、まさにそのようなルールの存在の有無にある。ルールはゲームの生命であり、面白さの源泉である。サッカーや野球ゲームのルールを全く知らなければ、何が面白くて試合を見るだろうか。私はアメフトのルールが分からないので、米国人があんなにも熱狂するスーパーボールのゲームを見たことも、見たいと思ったこともない。
さらに、サッカーが団体競技という点も、各別の面白みをもたらす要因である。11人の選手が見せる一糸乱れぬチームワーク、各選手の多様な個性と魅力、そんな要素が織り成す変化に富んだシーンの数々、これらが単調な個人競技では決して満喫できないサッカーだけの強烈な魅力なのだ。
このようなサッカーの面白みは、多くのスポーツと同様、自国チームを応援することで大きく増幅される。フーリガンやレッドデビルズ(赤い悪魔)を口にせずとも、敵味方がなければ、誰が競技場に足を運び、何が楽しくて試合を見るだろうか。
そう考えると、サッカーの本質は政治と驚くほどよく似ている。政治の世界は、基本的に勝負の世界であり、法や規範など、かなり複雑なルールの一種のゲームである。政治は、サッカーのように団体競技であり、支持勢力と反対勢力の優劣を分ける高度な応援システムによって作動する。なかでも、最近各地域のサッカーチームがあるように、韓国政治も、地域チーム中心に運営されている。
しかし、韓国政治は不幸にして、サッカーのような面白さも熱狂もなく、冷え冷えとしている。いや、見れば見るほど嫌気がさし、時にはぞっとすることもある。なぜだろうか。
その理由は簡単だ。韓国政治のルールはあまりにも「変化多様」で、まったくつかめないからだ。オフサイドが明らかなのに、ある時はゴールインと認められ、またある時は反則になる。警告を受けて退場した選手が、数分後には勝手に運動場に入ってきてゴールを決め、盛大な歓呼を受けたりする。
選手が狂ったように殴り合うこともあり、時には審判もそのケンカに加わる。選手が各自の個性的な技量を発揮せず、監督の言いつけどおりにするかと思えば、ある時はとっくみ合って殴りあい、敵味方が分からなくなる時もある。
このような状態では、初めはある程度期待して眺めていた観衆も、我慢しきれなくなって、だんだん観戦意欲を失うことになる。この競技は、騒々しいだけで面白みもなく、応援したいチームも特にないため、結局は競技場で引き返すことになる。
サッカーが発展するための条件は、何よりも観衆の関心と愛である。多くのサッカー英雄は、何もないところから生まれるものではない。ファンに愛され、認められなければならない。そのために選手たちは、力いっぱいグランドを駆け回るのだ。
政治という「国民の競技」が発展するためにも同じことが言える。選手が観衆から愛されるために、必死になって駆ける時、すばらしいシュートも飛び出し、ペレのような偉大な選手も誕生するのだ。民主政治はそうやって発展するのであり、偉大な政治家もそうやって誕生するものだ。
国民の歓呼の中でW杯祭が繰り広げられる6月には、韓国政治の祭りも行なわれる。6・13全国同時地方選挙は、国民の生活に責任をもつ代表選手らが、一勝負を繰り広げる楽しい国民の祭りである。決して見逃せない大試合である。果たしてどれほどの関心を集めて行なわれ、どれほど美しい勝負を目にすることができるだろうか。
金長権(キム・ジャングォン)ソウル大学国際地域院教授(政治学)






