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[オピニオン]ソクラテスが懐かしい

Posted January. 26, 2002 10:38,   

国教と相反する信仰を広め、若者たちを堕落させるという理由で、アテネの哲学者ソクラテスは、国家権力によって告発された。ところが、告発の本当の理由は、当時の支配思想を批判し、若者たちの思考を呼び覚ますことで、支配階層の特権とその理念を脅かしたということだった。

ソクラテスは、告発の理由が妥当でないということや、アテネを離れれば法廷に立つ必要もないうえ、危機を逃れることができると知っていたものの、そうした行動が自らの哲学的原則に反するとの理由から、法廷で堂々と裁かれる道を選んだ。

ソクラテスは、死刑宣告を受けた後も、過ちは自分にではなく、国と裁判官たちの判定と、その判定を支持した人々にあると確信しており、自分が死んだ後、貧しい妻と子供たちに降りかかる苦痛を考慮すべき一家の長としての道徳的な義務についてもよく承知していた。

彼はまた、良心のかしゃくを無視して弟子たちの取り計らいで、当局の暗黙的承認のもと、他国に逃れることもできた。しかし彼は、家庭に対するプライベートな義務より国の法律に対する公的義務の方が先行する、という自らの哲学的所信にもとづいて、弟子たちの必死の説得を拒んだまま、平然と毒を飲んだ。少しずつ固くなっていく師を見つめながら最後の一言を請う愛弟子のクリトに向かって彼は「クリト君!私は隣人のアスクレピウスに雄鶏一羽の借りがあるから、忘れずに必ず返してくれたまえ」とのことばを残して目を閉じた。

誰にも権力と富は貪欲の対象であり、生存は最も基本的な本能である。これらは、それ自体として悪くない大事な価値である。しかし、こうしたことよりもっと大事なのは、道徳的な原則である。原則は規範であり、規範は理性の産物であり、理性は自由を前提とする。人間だけが自由であり、理性を持ち、規範を作っては原則に沿って生きることができる。原則のない人間は人間ではなく単なる動物であり、原則のない生は人間的な生ではなく、単なる動物的な生である。金と権力だけでなく生存までもが、無条件的に良いわけではない。それらは、道徳的な原則に背かずに獲得した場合にのみ、価値としての存在が認められるのである。原則に背いた富、権力、生存は、原則に沿った貧困、無力、死に及ばない。原則に従うということは、自らの所信と一貫性を持って生きるということを意味し、自らの原則に沿って生きるということは、自分自身に正直であることを意味し、自分自身に正直であるということは、自らのアイデンティティーの確立を意味し、自らのアイデンティティーを確立することは、自らの存在に対する確認を意味する。人間の場合、原則のない生は死にほかならず、原則のない人間の存在は、これ以上人間として存在しない。その正否を離れ、原則のない生は、人間的な生ではないからだ。

哲学的所信に従って、牢獄から逃げることを拒みつつ死を選んだソクラテスは、全ての人類の心の中に「最も賢い人」として、永遠に生きているが、彼を死刑に処したアテネの権力者たちは、名も残せないまま死んでいった。政治的な所信に従って、ナチからフランスを守り、その後2度も危機にさらされた祖国を救った大統領として「国の父」とあがめられたものの、国民がこれ以上自分を支持していないことに気づいたとき、一言の言い訳や恨みはもちろん、未練もなく大統領官邸を離れたシャルル・ドゴールは、フランスの歴史の中でいつまでも生きているが、彼を追い出したフランス政治家たちの名前を記憶する者は少ない。自らの実存的所信に従って、これ以上愛さなくなったかつての恋人ホセに、愛していると嘘をつくよりは、むしろ彼の手によって死ぬ方を選んだジプシーのカルメンは、文学の中で、すべての男性の心の中に今なお情熱的に生き残っているが、権力と富を求めてぜいたくに生きた、かつての美女たち、そして今日の数多くの女人たちは、どの男たちの想像の中においても、決して美しく存在してはいない。

その、具体的内容に同意できるできないといった問題を離れ、原則のある生は貴い。政党をいとも簡単に変えては、権力の前でパイプづくりに熱心な政治家たち、ばく大な財産を蓄積したかつての最高権力者たち、数多くのゲート事件にかかわった政府、検察の実力者たちだけではない。

宗教、学術、文化などあらゆる分野と階層の、少なからぬ識者らの行動を冷静に見つめるとき、怒りと慨嘆、糾弾と哀れみが入り交じった気持ちを押さえ切れない。そのたび、ソクラテス、ドゴール、カルメンといった名前が思い出される。今日、この社会において最も名残り惜しいのは、私たちのソクラテス、ドゴール、カルメンなのだ。

パク・イムン 米シモンス大学名誉教授(哲学)