
一羽の鳥が、何かを目がけて飛んできた。何をそんなに急ぐのか、狩人には目もくれずに額をかすめて飛びすぎた。けしからん鳥だ。狩人が呆れて見ていると、鳥は栗林の中に止まった。そこで狩人は、弾き弓を手にとると、それを引き絞って射止めようとした。
その時、奇怪な光景が眼前に現れた。一匹のセミが、ちょうど快い木陰に満足して、我が身のことを忘れている。そのすぐそばで、一匹のカマキリが、このセミを捕らえようと葉陰に潜んでそっと近づいている。さきの鳥は、このカマキリをめがけて、あのような猛スピードで飛んできたのではないか。カマキリも獲物をとらえようと我が身を忘れている。
「目先の利益ばかりを追っていると、何が起こっているのか気が付かないのだな(見利而忘其真)」 。
狩人はそう呟くと、弾弓を投げ捨てて栗林を後にしようとした。その時、どこからか呼び止める声がした。さっきから狩人を怪しく思った栗林の番人が、栗泥棒と誤解して咎めたのであった。鳥に気をとられ、番人が見ていたことに気が付かなかったのである。
荘子の山木編に出てくる有名な蟷螂搏蝉の話だ。狩人は、まさに荘子自身であった。荘子は、これに驚き、このことがあってから3ヵ月ふさぎ込んだという。「世俗の濁った水に目を奪われて、真実の清らかな淵を見失っていた」と自分を責めたのであった。
自分の目標にのみ熱中するあまり、他人に見透かされ、後ろ指を指されていることにも気が付かず、脇目もふらない政治を見ていると、荘子の言葉が思い出される。例えば、この蒸し暑い夏、国民は水災害にみまわれ、一方では休暇のスケジュールで頭がいっぱいのところに、与党民主党が国政広報大会とか言って群集を動員して演説大会を開いた。与党側の言い分は、野党ハンナラ党が屋外集会で中傷するのでその対抗策だ、ということだ。
しかし、私の目には、両党ともカマキリとセミに気をとられ、我が身を忘れている(亡其身)ように映る。このインターネット時代に、野党が議政府(ウィジョンブ)で時局講演会を開き、与党が水源(スウォン)で国政広報大会を開いてみたところで、一体、誰に何を訴え、何を得ようというのか。誠に嘆かわしい次第である。人員動員のバスを貸し切るために金をばらまき、自分たちだけの集会で大声を出して手を叩きながら、他人のせいにして誹謗中傷したあげく、疲れて解散するのがせいぜいと言ったところではなかろうか。
漢江(ハンガン)の河川敷や奨忠壇(チャンチュンダン)公園に人々を集め、口先ばかりで群集と票を動かしていた時代がかつてあった。情報伝達手段が貧弱で、他に政策を唱える場がなかった時代環境のためである。しかし、新聞や放送、インターネットで「時局」を知り、むしろ、時局感覚に鈍い政治家を案ずるのが、今日の国民である。
政府与党の国政遂行の質と能力を誰よりもよく知っているのが国民であり、マイクを使って広報活動をしなくとも、自ら考えて行動するのが国民だ。さらに、すでに犯した過ちを与党の最高委員長が遊説先で釈明したとして、それに感服し拍手を送る国民は少ないだろう。むしろ、そのように国民を時局講演の対象とし、広報や説得の客体と見なすこと自体が、世情に疎い行為だということを政治家は自覚すべきだ。
政治家らは集会場で、国家や国民を案ずる気持ちを声高に訴えるが、その実、政治はと言うと、自分たちだけの自分たちだけのための「劣悪政治」の競争にすぎない。おととい行われた水源集会は、野党の総裁を狙った誹謗中傷の場と化したという。どちらがよりよい政治をするかと言うよりは、どちらが損失を少なく抑えるか、どちらにせよ咎められるのなら、相手側より少ない方が勝ちを意味するという「ネガティブな競争」に明け暮れるのが、韓国政治の現状だ。
このように、政治が目先の小さな利益に振り回されることで「政権獲得のためなら、野党は政治色によって保守・革新の構図に進むべき」という具合の危なっかしい分裂策士が現れはしないだろうか。「知性は、方法や道具としては鋭い鑑識眼を持っているが、目的や価値については盲目だ」と説いた天才科学者アインシュタインの嘆きを思わせる。
小さな利益に目がくらみ、濁った水に執着して罵り合う政治は危険だ。韓国政治が、セミやカマキリごときを狙って気をとられているすきに、経済問題が押し寄せ、米国、日本そして中国が、弾弓で狙っていることを自覚すべきではなかろうか。
金忠植(キム・チュンシク)論説委員






