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[オピニオン]五馬島(オマド)

Posted August. 24, 2004 22:14,   

「歩いても歩いても赤い黄土の道/息詰まる暑さだけだった/見知らぬ友達に会えば/私たちハンセン病患者同士で嬉しい…/柳の下で靴(ジカダビ)を脱げば/足の指がまた一つ消えた/これから残った二つの足の指が切られるまで/歩いても歩いても千里、遠い全羅道の道」

「天刑の詩人」ハン・ハウン(1919〜1975)が、ハンセン病にかかって、故郷の咸鏡南道咸興(ハムギョンナムド・ハムフン)から全羅南道小鹿島(チョンラナムド・ソロクド)まで行く道程を描いた詩だ。彼が残した「麦笛」「全羅道の道—小鹿島行く道」「青い鳥」などは、今も教科書に載せられ愛されている。

◆ハン・ハウンの詩編には「オマド」という詩もある。「ハンセン病患者が/海に石を投げて…/陸地330万坪の5万石沃土になった/…生きて最後に/虐待された名前を洗って/人の役目を果たす/オー、光栄の地/日差し一杯の五馬(オマ)の地よ/闇で輝く日差しよ」。ハン・ハウン詩人が小鹿島病院に頼まれて、五馬島(全南高興郡)干拓事業を記念して使った祝詩のようだ。どの時点で詩を使ったかは正確に分からないが、五馬島は詩句のように「光栄の地」でもなかったし「闇で輝く日差し」にもならなかった。

◆1962年、小鹿島のハンセン病患者2000人余りが定着村を建てるという執念で団結して五馬島干拓工事をした。しかし、共和党政権は選挙を意識してハンセン病患者たちを作業場に追い出して、事業権を全羅南道に渡した。ハンセン病患者を「人扱い」しなかった時代に起った悲劇は、五馬島だけではない。光復(クァンボク、日本植民地支配から独立した日)直後、小鹿島でハンセン病患者たちの暴動が起きるや、治安維持隊が84人を殺害した事件があった。1957年には三千浦(サムチョンポ)沖合にリハビリ村を建設しようとするハンセン病患者たちが住民の襲撃を受けて23人が死亡した。

◆大韓弁協は五馬島事件の真相を解明して補償をする内容の法制定を国会に要求する方針だと言う。40年が過ぎても五馬島事件のように誤った事は解明しなければならないし、悔しい死は伸寃しなければならない。しかし、止めることができない回転木馬に乗りこんだような目まいがする。亡国、植民地、分断、戦争、軍事独裁の現代史を生きながら、海に浮かんでいる島ごとに、山河の谷間ごとに悔しい死が葬られていない所が、どこにあろうか。

黄鎬澤(ファン・ホテク)論説委員 hthwang@donga.com