先月、自殺して命を絶った障害者で露天商のチェ・オクラン氏(36)の悲劇は、多くのことを考えさせる。脳性マヒ1級の障害者だったチェ氏は、国民基礎生活保障法の低い生計給与の引き上げを求めて座り込みを行ない、違憲訴訟まで起こしたものの、挫折してしまった。障害者の最低生活さえも保障しない現実が、彼女を死に追いやったのだ。
韓国社会が、障害者にいかに閉ざされた社会であるかを示す事例は数多い。障害者施設が入ってくるという理由で、住民がデモを行なったり、入学や就職に不利益を被るのが常だ。入社試験で最高点を取った障害者の面接試験の機会を奪ったある公企業の横暴は、その端的な例である。障害者の失業率が、全体失業率の7倍を超え、給料が半分にも及ばないのが、厳然たる現実である。
何よりも、障害者の最も切実な最少限の要求である移動権さえ保障されていない。昨年、ある障害者の生命を奪った地下鉄のリフト墜落事故はまれな場合だとしても、至る所にある通路の段差や階段で立ち往生する街は、障害者には地雷畑のようなものだ。今年、特別選考でソウル大学に入学した障害をもつ学生の絶叫は、私たちを恥ずかしくさせる。図書館の横の階段に手すりがないため、這って降りなければならないというのだ。平等な学業の機会の場としてリードしなければならない大学がこの程度では、法が規定する「障害者の社会参加と平等による社会統合の実現」は、見せかけだけの言葉に過ぎない。
毎年「障害者の日」になると、あちこちで行事が行なわれる。しかし障害者の問題の本当の解決は、1度きりの行事ではなく、150万の障害者を自分と全く同じ隣人として受け入れる社会認識の転換から出発しなければならない。障害者を「障害友」と呼ぶのもその一つだ。このような運動を先導するのがまさに政府の役目である。
障害者に対する配慮は「犠牲」ではなく、ともに暮らす他人に、当然守られなければならない「義務」である。「障害者の日」を迎えて、深く考えるべき教訓である。