保守政党の全盛期はいつだったのか。まず思い浮かぶのは、「3党合同」という大勝負によって軍事政権を終わらせ、文民政府を誕生させた金泳三(キム・ヨンサム)元大統領の時代だろう。李明博(イ・ミョンバク)、朴槿恵(パク・クンヘ)両大統領が続けて政権を担った時期もあった。この間、第18、19代総選挙でハンナラ党、セヌリ党は相次いで過半数を獲得した。ソウル・釜山(プサン)市長補欠選挙での圧勝、李俊錫(イ・ジュンソク)元代表の30代・当選回数ゼロの党代表旋風、そして尹錫悦(ユン・ソクヨル)前大統領による政権奪還と地方選挙での大勝が続いた2021~22年も挙げられるだろう。
保守陣営の重鎮の中には、1996年前後、第15代総選挙を迎えた時期を歴代屈指の全盛期と見る向きも多い。活動の場を広く使い、人的材刷新に成功し、支持基盤を大きく拡張できたからだ。94年の初の地方選挙で惨敗し、政権の危機感が高まると、与党だった民主自由党は左右を問わず幅広く人材を迎え入れ、党名も「新韓国党」へと改めた。李在五(イ・ジェオ)民主化運動記念事業会理事長や金文洙(キム・ムンス)元雇用労働部長官も、この時期に党に加わった。
野党や進歩陣営は大きな衝撃を受け、裏切られたとの感情に包まれた。それだけ李在五氏と金文洙氏が、民主化運動史において持つ重みと影響力が大きかったからだ。李在五氏は在野・民衆運動の大物と呼ばれる存在だった。5度も投獄され、独裁と闘った。87年6月の抗争後、多くの活動家が金泳三氏の統一民主党や金大中(キム・デジュン)元大統領の平和民主党に向かう中でも、民衆党を結成し、進歩陣営を守った。
同時代の金文洙氏は、労働運動の重鎮だった。魯会燦(ノ・フェチャン)や沈相奵(シム・サンジョン)氏も、金文洙氏の前では名刺を出せなかったという話が、今も労働界で語り草になっている。「労働者の政治勢力化」と「社会変革」を掲げ、80年代に最も闘争的だったソウル労働運動連合を率いた。治安機関に連行され、激しい拷問を受けながらも沈相奵氏の名前を口にしなかったという逸話は有名だ。金文洙氏もまた、2つの民主党には向かわず、李在五氏と共に民衆党を守った。
そうした李在五氏と金文洙氏が保守政党に入党できたのは、当時総裁だった金泳三氏の決断と刷新への執念、そして2人を受け入れた柔軟性と「足し算の政治」があったからにほかならない。金泳三氏と衝突し、127日で退いた「一本気の判事」李会昌(イ・フェチャン)元首相や、「砂時計検事」と呼ばれた洪準杓(ホン・ジュンピョ)氏も96年に入党した。人的刷新に成功した新韓国党は、第15代総選挙で野党の「政権審判」のフレームを跳ね返し、139議席を得て第1党の地位を守った。
李在明(イ・ジェミョン)大統領が企画財政処長官候補として李惠薫(イ・ヘフン)元議員を指名した日に、野党「国民の力」は李惠薫氏を即時除名した。党執行部は「金重培(キム・ジュンベ)のダイヤモンドがそんなに欲しかったのか」と切り捨て、裏切り者と決めつけて総攻勢に出ている。張東赫(チョン・ドンヒョク)代表は一歩踏み込み、「問題行為をした人物を適切に処分できなかったために、こうした事態が起きた」と述べ、党性(党への忠誠)を強調した。さらに親尹(親尹錫悦)系の人物を再び執行部に起用し、韓東勲(ハン・ドンフン)前代表を懲戒に付すための倫理委員会も稼働させた。
かつて金文洙氏や李在五氏を迎え入れ、「足し算」を重ねてきた政党が、いつからこのように「引き算」ばかりするようになったのか。張代表にとって急ぐべきは、裏切り者への懲罰や韓東勲氏の懲戒よりも、この問いに正面から答えることだ。
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