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5月8日の父母の日の由来

Posted May. 08, 2025 08:46,   

Updated May. 08, 2025 08:46


5月8日は両親の恩に感謝する「父母の日」だ。だが、この日が最初から「父母の日」だったわけではない。1973年3月24日、閣議で既存の「母の日」を「父母の日」に変えたのだ。毎年、母の日ごとに「父の日はないのか」という皮肉が起き、結局両親全員を賛える方向へと拡大した。では、母の日はいつできたのだろうか?

韓国の母の日は、米国から影響を受けて生まれた。米国は1914年、5月の第2日曜日を「母の日(Mother’s Day)」に指定した。米国の母の日の始まりは、1908年、ウェストバージニア州グラフトンの教会の礼拝だった。アンナ・ジャービスが母親を称えて礼拝を開き、これを機に全米に広がった。母親のアン・ジャービスは、生前に「母親の友情の日」を作ろうとしたが成し遂げられず、娘がその意を継いで制度化に成功した。米国には「父の日」も別に存在する。6月第3日曜日で、1910年にソノラ・スマート・ドッドが南北戦争の参戦勇士出身で5人の兄弟を育てるために献身した父親を賛えるために始めた行事から始まった。

「世界の母の日」は、1925年5月16日付の東亜(トンア)日報の報道を通じて初めて紹介された。当時の記事は、「米国などでは、この日(母の日)、母に感謝と慰めを与えるために胸に雪片のように白いガビソンの花を挿す」と紹介した。翌年の5月も東亜日報は、「母親が生きている人は襟に赤いバラの花を、母親を亡くした人は白いバラの花を挿してこの日を記念する」と報じた。

1932年、東亜日報が、「私たちも母の日を記念しよう」という社説を掲載し、関心が始まった。当時、母の日の由来について正確に知らず、事実と想像が入り混じった説明が交わされたりもした。このようにしても広く知られた母の日が、本格的に記念されたのは光復(クァンボク=日本植民地からの独立)後だった。大韓婦人会が行事の先頭に立った。ソウル市が1952年5月8日に母の日の記念式を開き、1955年8月30日に閣議を通じて公式記念日となった。

母の日の起源は、独立運動家の趙信聖(チョ・シンソン)の葬儀日から始まったという主張もあるが、事実ではない。趙信聖は1953年5月5日に死亡し、先に述べたように1952年にはすでにソウル市主催で母の日の行事が開催された。当時、母の日の運動の先頭に立ったジャーナリストの崔恩喜(チェ・ウンヒ)は、母の日の由来を説明したコラム(朝鮮日報1955年5月8日付)で、「父の日はないのか」と嘲弄された4年前」という表現を使い、母の日がそれ以前から存在していたことを明確にした。

趙信聖は、平安北道義州(ピョンアンプクト・ウィジュ)出身の独立運動家で、夫と死別後、日本留学をして島山安昌浩(トサン・アン・チャンホ)と交流し、進明(チンミョン)女子学校の校長を務めた。その後、抗日武装闘争と女性運動の先頭に立ち、光復後、北朝鮮の懐柔を振り切って74歳で南下し、大韓婦人会の副総裁を務めた。しかし、高齢で一人南下した体で、悲惨な生活を続けていたところ、釜山(プサン)の老人ホームに於いて82歳で逝去した。彼女は偉大な独立運動家だったが、母親としての人生を送った人物ではない。

母の日を作ったアンナ・ジャービスは、記念日になった後、母の日が商業的に利用されるのを見て絶望した。母の日をなくそうと努力までした。私たちも、父母の日が商業的な目的だけに消費されないように努力しなければならない。