唐の玄宗が寵愛した楊貴妃が死を迎えたのは、安史の乱直後の避難の道中だった。楊貴妃の死にまつわる歴史の記録。避難2日目、皇帝一行が馬嵬に到着すると、護衛していた禁軍が「反乱の原因」である楊貴妃を殺さなければ一歩も動かないと言った。皇帝はやむなく楊貴妃に別れを告げ、宦官の高力士が楊貴妃を連れて行き、首を絞めた。年齢は三十八歳だった。詩人は、馬嵬での出来事を思い浮かべ、美女にのめりこんで国事を台無しにした玄宗を厳しく叱咤する。君主として「傾国之色」を警戒していれば、乱を招くことも、また避難の道に出る必要もなかったのではないかということだ。連作詩となった第2首の風刺はより辛辣で、「なぜ四十数年間も皇帝の役目を果たしながら、妻の莫愁を大切にした平民より劣るのか」と言った。
一方、楊貴妃に対する詩人墨客たちの賛辞、皇帝との悲劇的な愛を惜しんだ歌も多いが、その中でも白眉は白居易の「長恨歌」だ。白居易が彼らの愛に同情し、賛美した840字におよぶ長編叙事詩だ。楊貴妃を「後宮には三千人の美女がいるが、三千人分の寵愛を一身に受けている」と描写し、「天地はいつまでも変わらないが、いつかは尽きる時がある、(しかし)この悲しみは綿々と、いつまでも絶えることがないだろう」とその切ない愛を惜しんだ。