
「三国遺事」を書いた高麗時代の僧侶一然は、人生のほとんどを母親と離れて暮らしたが、親孝行だった。だからか、彼は「三国遺事」の最後に親子の話を配置した。金富軾(キム・ブシク)の「三国史記」にも出てくるその話は、彼の手を経て感動が増した。
知恩という名前の娘が出てくる。知恩は幼くして父親を亡くし、盲目の母親と暮らしている。あまりにも貧しいため、物乞いをして母を養うが、ひどい凶作が起こり、それすらできなくなる。そこで、知恩はある金持ちの家に身を売り、下女になり、母親にご飯を炊いてあげる。数日後、母親が言う。「以前は粗末な食事でも気が楽だったのに、最近は良い白ご飯を食べているのに、腸を刺すように心が楽ではない。どうしてだろう」。娘が本当のことを話すと、母親は泣き叫ぶ。「私のために下女になったなんて、私は早く死んだ方がいい」。母も泣き、娘も泣く。
「三国史記」が伝える話はここまでだ。ところが、「三国遺事」には「三国史記」にない内容がある。「娘は母親をお腹いっぱい食べさせようと思っただけで、母親の心を和ませてあげられなかったという自責の念に泣いた」。彼女は自分が最善を尽くしていると思っていたが、振り返ってみると、むしろ母親を苦しめたことに気づく。自分の考えが浅はかだったことに気づいたのだ。だから、母親は自分のせいで娘が下女になったことを泣き、娘は香、つまりおいしいご飯より糠粃(こうひ)、つまり、ぬかとしいなの粗末な食事を食べた方が気が楽な母親の心を理解できなかったことを自責して泣く。母親には娘が、娘には母親が先だ。自分より他人を先に考える愛の文法と言おうか。
「三国遺事」は「三国史記」と同じ物語を共有しながらも、倫理性の問題をより深く探索する。一然は、この話を最後に配置し、愛は物質ではなく心の問題であるという常識的だが忘れがちな事実を再認識させる。