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「目が明るくなる不思議な物」メガネはいつ朝鮮に入った?

「目が明るくなる不思議な物」メガネはいつ朝鮮に入った?

Posted January. 01, 2022 08:44,   

Updated January. 01, 2022 08:44

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「西洋の白ガラスが売れ始め、眼鏡を作って小銭ほどだから、目の前に置くと目が明るくなって毛並みがよく見えるのは不思議だな」

清の初め、文人の孔尚任が残した記録だ。一時、眼鏡は西欧式近代化の産物としてのみ考えられていたが、朝鮮時代の正祖(チョンジョ)王を描いた映画とテレビドラマが眼鏡をかけた王の姿を登場させ、「朝鮮時代の眼鏡」に対する認識も見慣れでないものになった。メガネは誰がいつ初めて作り、いつどのように東アジアに伝来したのか。

中国海洋史を研究してきた著者は、電話、携帯電話、インターネットをしのぐ便宜の革新をもたらした「眼鏡」をキーワードに、中世以降近代までのユーラシアの交易ネットワークを追跡する。

眼鏡の発明は、1280年代に欧州で行われたものと推測される。その背景には、イスラムに蓄積されたガラス技術と知識があり、この新しい文明の利器は、欧州とアラブで13世紀末、同時に広がった。中国に流入した記録は、明宣德帝(在位1425~1435年)の時代から見えるが、本格的な使用は16世紀になってからだ。

初期アジアに伝播したメガネは、外交と貿易を並行する明の朝貢貿易のルートに従った。眼鏡やその他の物品を朝貢した地域は、サマルカンド(現在のウズベキスタン)と天方国(メッカ)、ムラカ(マレーシア)などと記録され、明が北方と海洋の異民族を区分して管理した方式を示している。著者は、眼鏡の中国伝播が元帝国の滅亡後、断絶したと思われていたユーラシア交易ネットワークの回復の証拠だと解釈する。明は朝貢品に対し、手厚い補償を行い、品質のよいメガネが中国に持ち込まれた。

中国人がメガネを作り始めてから、メガネは東アジアで急速に広まっていった。明万暦帝(在位1572~1620年)時代には広州を皮切りに、中国江南地域に眼鏡製作が拡散した。遠視鏡が始まりであったが、続いて近視鏡も普及した。清乾隆帝(在位1736~1796年)の時になると、度数を12段階に細かく分けて販売するほどだった。中国人らは、ガラスより水晶で作られたメガネを高く評価した。ガラスを作る際に使用する火気が、目を害すると考えたからだ。

眼鏡が朝鮮に伝来したのは、壬辰倭乱の時と考えられる。李瀷は1740年頃に著した星湖僿說で、「このエチェという眼鏡は将来中国に伝わるだろうし、家庭でも必ず備えるだろう」と書いた。「エチェ」とは、朝鮮時代には眼鏡を呼ぶ最もなじみの深い名前の一つだった。18世紀に北京を行き来した燕行使節の記録にも、眼鏡が数多く言及されている。実学者の李圭景(イ・ギュギョン、1788~1856)が書いた「眼鏡類」には、眼鏡を近視眼鏡、遠視眼鏡で区分し、形態によっても区分した文章がある。

日常の重要な事物を話題に、交易の世界史を几帳面に紐解いた点は目立つが、残念な点もなくはない。著者は、欧州で眼鏡が発見されてから半世紀後には中国にも眼鏡が到達したと推定するが、より細かい論証には進まない。本のテーマに重要な部分でもないだけに、省略した方がいいだろう。「宣德年間」「乾隆年間」などの表記が出るたびに西暦年度を付加して表記していたなら、中国の歴史になじみのない一般読者に一層親切だっただろう。しばしば登場する「グルライディング」表記は、「グライディング(grinding、研磨)」の誤記と思われる。


ユ・ユンジョン記者 gustav@donga.com