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心を見せることができるなら

Posted May. 31, 2021 08:21,   

Updated May. 31, 2021 08:21

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「事実は一つでも、真実は人の数だけある」(三浦しをん『私が語りはじめた彼は』)

今はこの世にいないが、老犬のナムと散歩していた時に起こったことだ。ナムは目が見えないので、しばしば向かい合って歩いた。そのため、片手は首輪をつかみ、もう一方の手は、手の平を少し開けてさぐりながら歩かなければならなかった。手を後ろに向けて、遠足に行く保育園の子どもたちを引率する保育士のように後ろ向きに歩いた。その日もあまり人気のない散歩道を歩いていると、突然手の平に人のお尻のようなものが触れた。びっくりして振り返ると、ある女性のお尻だった。彼女は後ろを向いて携帯電話を見ていた。私は手を後に向けて後ろ歩きしていて、知らずにお尻を触ったのだ。女性は「キャー!」という悲鳴を上げ、謝罪して事は終わったが、このことはいろいろなことを考えるきっかけとなった。

もし性別が違ったなら、その女性が痴漢だと通報したなら、これはもう手の施しようがない。私の立場では、女性がいるとは分からなかったし、私の手に女性のお尻が近づいてきたわけだが、視覚障害の犬を言い訳にして、手を後ろに向けてお尻を触ったと相手が言い張ればどうしようもない。防犯カメラもなく、証人もいない所で、恐らく痴漢犯にされるだろう。そうして世の中には濡れ衣を着せられる人が生まれるのだと思った。実際にそのような人がどれほど多く存在するだろうか。

人は自分が知っていること、見たもの、さらに想像したことが事実だと堅く信じる。しかし、それは美術の時間に席を移動しないで描いたアグリッパのようなもの。それゆえ、事実は一つでも、真実は数え切れないほど多い。心にジッパーがついていたらいいと考える時がある。誤解が生じる度にパッと開けて確認し合えるように。