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より良い暮らしに向かう人間の歴史

Posted January. 01, 2021 09:04,   

Updated January. 01, 2021 09:04

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人間は常により良い生活条件と環境を探す。今よりもっと良い生活環境があれば、いつでもそこを探し求めて出る。人間の脳に刻まれた生まれつきの自由への渇望は、これをさらにかき立てる。北アフリカ・モロッコのアシラからスペインの方の海岸を眺めながら、多くの若者が欧州に向かおうと難民船に乗って、命がけの試みをしているのもそのためだ。まるで1970年代に韓国の若者が米国に渡ろうとした時のあの気持ちのように、またある時期、韓国を「ヘル朝鮮」と呼んで抜け出そうとした時の気持ちのように、生まれ育った地を去る決心をした人々が持つ切迫さと切実さは、恐ろしさと不安もしばらく静める。そんなに切望し、希望した所で、私を歓迎してくれる人は一人もいないとしても、今住んでいるここよりはそれでも「より増しだろう」という希望があるからだろう。

ところが私たちは昨年、地球上で「より良い所」、少なくとも「より良いと思う所」を失ってしまった。コロナウイルスが全世界に広がり、累積死者が170万人を超える中、「より良い所」「より安全な所」はなくなったのだ。先進国だと思っていた国々で、むしろ幾何級数的に死傷者が増えているのを見て、一時、ある社会と国の成長エンジンとなっていた底力が、コロナ事態を解決するうえで、かえってネックとなっていることに気づく。

コロナ時代を通じて、ある社会が持つ昨日の長所が今日の短所になり、今日の短所が明日の長所になっている。ここで重要なことは、何が長所で短所なのかという区分ではないかもしれない。このような現実の中で、個人であれ社会であれ、自分、あるいは私たち中心の自己確信が必要な時だと思う。今まで外を意識して生きてきたのだから、これからは私たちの中で省察し、可能性を見つけて枝を伸ばしていかなければならない。しっかり根を下ろして土が固まれば、生きている生命体はいつでも育つものだ。

先日、食事の途中、奥歯を覆っていたクラウンがぽろりとはがれてきた。こともあろうに、歯科も閉まった金曜日の夕方だったので、口腔洗浄機でよく洗い流した後、よく見ると、奥歯がすべて腐ってなくなった部分がぽろっと現れた。こんなに腐って折れるまで知らなかったというのは不思議だったが、それもそのはず、神経治療後クラウンをかぶせたので、苦痛が感じられないのは当然だった。

これを通じて、痛みというのは必ずしも悪いことではないということを実感するようになった。痛みにはれっきとした役割があった。病気になったとき、私の体は特有の防御力でいろいろな症状を見せるが、最も多いのがどこかが痛い症状だ。痛みは人体が病気になり、現在私の体が戦って治そうと努力していることを知らせる役割をする。

一日一日静かな日がないような韓国社会をめぐって、対立と緊張がいっぱいだと不満に思う人がいるかも知れない。人によっては、それをもっとうるさく疲れると感じるかもしれないが、それは考え直せば、韓国社会が「生きている」ことを物語るものだ。「より良い社会」「より良い生活条件と環境」を求めている人間本能の発露であり、むしろ健康な社会だと言いたい。

本当の問題は、そのような対立と緊張が騒ぐように毎日出てくるのではなく、私の、あなたの、誰かの、社会の苦しみや痛みを感じることができないことだ。一人の痛み、一共同体の痛みをゆっくり考えるより、「君が痛いのは痛いものでもない。俺を見るか」という風に、もっと強く、もっと大きな痛みだと思うことで、相手の痛みを覆い隠そうとするやり方なら道が見えない。

どの社会にも問題はあり、痛みも伴う。一見、大きな問題がなさそうな国でも、もう一歩踏み込んで眺めると、深刻な問題をすべて抱えている。それでも問題について誰でも問題だと言える社会なら大丈夫だ。そうした面で韓国社会が「よりよい社会だ」と考えることから希望は出発すると思う。

失われたものがあまりにも多い絶望の昨年を見送り、我々が回復しなければならないのは希望だ。各界各層の学者や専門家たちは、コロナ以降の世界がどのように変化するか、多様な予測と分析を出しているが、明らかなことは、より良い所、より良い人生に向かって進もうとする人間の望みだけは変わらないということだ。そのおかげで、人間は歴史の中で数多くの「パンデミック」を克服してきた。今回も勝ち抜くだろう」

Spes sola hominem in miseriis consolari solet。(キケロ、カティリナ弾劾演説、4、8)

「希望だけが苦しむ人間を慰めることができる」