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リンダ・ペリー、「K-POPに米音楽産業の代案的青写真を見る」

リンダ・ペリー、「K-POPに米音楽産業の代案的青写真を見る」

Posted May. 02, 2019 08:52,   

Updated May. 02, 2019 08:52

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「子どもの頃から貧しかった。安い粉ミルクを水に溶かして飲み、ツナの缶詰めが食事でした。8年生で学校を辞め、15歳で家出しました。公園で野宿し、薬物に溺れました」

先月22日、ソウル中区退渓路(チュンク・トェゲロ)で会った米国人歌手、リンダ・ペリー(54)は、「あまりにも早く燃えつきてしまった人生の灰から不死鳥のように這い上がる日を夢見た」と振り返った。

彼女の翼は歌だった。そしてポップ音楽界のスーパーウーマンになった。ロックバンド「4ノン・ブロンズ」のボーカルとして1992年のヒット曲「What's Up」を作った。バンド解散後は、セリーヌ・ディオン、アリアナ・グランデ、アデルのために曲を書いた。2月のグラミー賞「プロデューサー・オブ・ザ・イヤー」にノミネートされた。女性がこの部門にノミネートされたのは15年ぶり。映画「Dumplin'」の音楽で今年のゴールデングローブ賞にもノミネートされた。「What's Up」のミュージックビデオは、ユーチューブで7億2千万件の視聴回数を記録した。

「サンフランシスコの私の小さな部屋で、子犬を見ていて作った曲です。『私一人でも大変な暮らし。子犬を拾ってくるとは・・・』とため息をついて何気にギターを手にしました」

たった3つのギターのコード(A-Bm-D)に合わせて何かに取りつかれたかのように最初のフレーズ(「25年間生きたが、私の人生はまだ希望の丘を上がろうと苦しみ」)が飛び出した。ペリーは、「隣の部屋にいたバンドのメンバーが飛んで来て、『もう一度歌ってみて』と言ったことを思い出す。数ヵ月後、世界の人々が口ずさんだ。信じられなかった」と話した。

プロデューサーへの転向も電光石火だった。ペリーは、「当時流行したデジタル音楽のソフトウェアをいたずらで鳴らし、『パーティーを始めて、土曜の夜に』のような米国のポップの歌詞を付けて遊んだ。その録音が偶然、大手コード会社に渡った」と話した。20分で作ったこの歌は、ポップスター、ピンクの「Get the Party Started」(ビルボードシングルチャート4位)になった。ペリーは、引く手あまたの作曲家になった。

次の依頼人はクリスティーナ・アギレラ。「Beautiful」(ビルボード シングルチャート2位)はアギレラに初めて会った日、ペリーがぎこちないムードをリラックスさせようと歌った曲だった。ペリーは、「ピアノの前に座って『私は美しいから/他人が何と言っても』と歌うと、クリスティーナがその曲を望み、当惑した」と話した。

「このような自嘲的な悲しい曲はあなたに似合わない。あなたは本当に美しい」と言ったが、数日後、アギレラはペリーの家を訪ね、涙声で、「Beautiful」の最初のフレーズを歌った瞬間、ペリーは悟った。「このように美しい女性も内面は病んでいる。自分を美しいとは思わないんだ」

ペリーはその時から「ソング・ドクター」と呼ばれ始めた。ポップスターの魂を歌で癒す作曲家という意味だ。ペリーは来韓してK-POP会社と将来の協力について話し合った。「K-POPはパフォーマンスとイメージがすばらしい。歳月を超越する歌の力まで得るならどうなるか」

ペリーは、「今後、ブラックピンク、NCT、ママム、トゥワイスのようなグループの曲を作る」と語った。

「韓国人の情熱から、米国の音楽産業の代案になる青写真が見えます。ローリングストーンズ、レッド・ツェッペリンは依然として世界の人々の胸に響いています。数十年後、グラミー賞生涯業績賞は誰が受けとることになるでしょうか」


ヨウ・ヒユン記者 imi@donga.com