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人類初の月面着陸、アポロ11号船長のアームストロング氏が死去

人類初の月面着陸、アポロ11号船長のアームストロング氏が死去

Posted August. 27, 2012 07:11,   

1969年7月20日、米東部時間午後10時56分20秒。

米宇宙船「アポロ11号」に乗って月面「静かの海」に無事に着陸したニール・アームストロング船長は、人類史上最高のワンシーンを生み出した。アームストロング氏は、エドウィン・オルドリン操縦士と共に「イーグル号」を乗って月に降り立った。「サターンV」ロケットに搭載され宇宙に打ち上げられて3日後に月の後方に到着し、月を13周した後、着陸地点についた。テキサス・ヒューストンの本部のコンピュータでは、アポロ11号の燃料がまもなく底をつくという警告音が鳴り始め、緊迫した状況だった。アームストロング氏は、本部と歴史的な初の交信をした。

「ヒューストン、静かの海本部だ」(ヒューストン)

「イーグル号が今着陸した」(月)

「ロジャー、静かの海」(ヒューストン)

「月面に到着した。再び息をしている。本当にありがとう」(月)

やがて白い宇宙服にヘルメットをしたアームストロング氏が着陸船からはしごを使ってゆっくり月面に降り立った。月面に第1歩を踏み出したアームストロング氏は、「1人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」と語った。

さらに、着陸船イーグル号のオルドリン操縦士が、アームストロング氏と合流した。2人は月の低い重力のため、まるでカンガルーのようにピョンピョンと月面を飛び回った。当時、司令船に乗っていたマイケル・コリンズ操縦士は、着陸船より60マイル(約96.5キロメートル)上空を飛行し、彼らが無事に帰還するのを待った。彼らは2時間10分の間、月面にいて、テレビカメラや科学装備を設置し、岩石の破片を採集した。この時から1972年までに米国はアポロ17号まで打ち上げ、12人の宇宙飛行士が月に足を踏み入れた

アームストロング氏の月面着陸は、宇宙開拓の分野で旧ソ連に出遅れていた米国のプライドを回復する契機になった。また、人類に宇宙への新たな希望のメッセージを伝える歴史的な瞬間だった。多くの家庭では、大人や子どもたちが我を忘れてテレビを見ていた。

アームストロング氏は1930年8月5日、オハイオ州の小さい村であるワパコネタで生まれた。父親のステイーブン・アームストロングは州の会計監査員だったので、アームストロング氏は幼い頃、オハイオ州の小都市を転々とした。アームストロング氏は6才の時、父親とともに「ティン・グース」と呼ばれるフォード飛行機に乗って、飛行機に関心を持ち始めた。高校時代、「イーグル・スカウト」に加入し、パデュー大学では海軍奨学金を受け、航空工学を専攻した。

大学在学中に海軍に入隊し、戦闘機の飛行士として活動し、韓国戦争に従軍して78回戦闘飛行し、1952年8月に退役した。当時、ソウル奪還に大きな功績を上げたとされたが、韓国戦争で任務を終えた後は、再びパデュー大学に戻って1955年に卒業証書を受け、米航空宇宙局(NASA)で宇宙飛行士の道を歩む。

1962年、第2期宇宙飛行士に選ばれ、1966年「ジェミニ8号」の指揮操縦士として初の宇宙飛行をした。アポロ11号の船長として無事に月面に着陸し、地球に戻ったアームストロング氏はその後、研究開発分野で主に活動した。シンシナティー大学で工学教授として教壇に立ったこともある。宇宙飛行士としての名誉に執着しないことで有名なアームストロング氏は、公式席上にあまり姿を見せなかった。

アームストロング氏は今年5月、オーストラリアの公認会計士のある会合で、生涯最後のインタビューを受けた。アームストロング氏は、「当時、月面着陸に成功する確率は50%程、月探査後に地球に無事に帰還する確率は90%だと信じていた」と語った。アームストロング氏は、「1960年代に比べて、オバマ政府がNASAの研究を急激に減らしたことは大変悲しいことだ」とし、「NASAは、学生の野望の実現に向け、鼓舞する最も成功的な公共機関として活動してきた」と強調した。月面着陸が捏造されたという陰謀説については、「人々は陰謀説が好きだが、いつか誰かが月に行って、私が残してきたカメラを持ってくると確信しているので、全く心配しない」と話した。



yhchoi65@donga.com sohn@donga.com