
我々が夢で見てきた清らかな世界は、このようなものではないかという気がする。小さな家の睦まじい家族。その家と調和をなしている木々や鳥たち。全てのものを暖かく包み込む太陽と月。無駄なものがない風景には、兄弟でもあるかのように、人と自然が情を交わす世相が物静かに描かれている。
来年2月7日まで、ソウル大学美術館で開かれる「張旭鎮(チャン・ウクジン)展」は、私と家族、我々が属する共同体と自然を、純粋かつ善良な視線で眺めた絵画と出会うチャンスである。今回の展覧会は、近現代美術史に大きな足跡を残した画家、張旭鎮(1917〜1990)の没後20年を控え、開かれている。張旭鎮は、日常的で普遍的な素材を特有の表現で作りだされた作品の世界として、知られている画家である。家や並木、鳥など、一定の図上が繰り返し登場する氏の平面的な絵画は、日常的な素材を扱いながらも、脱俗や超越の世界を目指す。天真爛漫な童心を持つ道人の作品のように。
今回の展示では、伝統と現代を繋ぐ造形的な可能性を模索する画家の初期から晩年まで生涯の作業が示されている。油絵90点余りをはじめ、1980年代に描いた墨絵やペンによる写生など計140点余りが、「模索期」(1938〜1950年)、「抽象への旅路」(1951〜1964年)、「伝統と共に」(1965〜1979年)、「孤独—風となって」(1980〜1985年)、「道人と民画」(1986〜1990年)の5つのセクションに分かれて展示されている。
淡白な画面に溶け込んでいる驚くべき想像力と慇懃なユーモアは、スピード競争に疲れている現代人の心を慰める。大衆的な人気に押され、学問的なアプローチがないがしろにされただけに、抽象作品や写生などを披露し、彼に対し全体的に見渡すきっかけとなった。来年1月に、美術館や京畿龍仁市(キョンギ・ヨンインシ)の古屋では、教育プログラムも行われる。入場料は2000〜3000ウォン。お問い合わせ電話番号は02−880−9504.
●路上に立つ
黒い燕尾服姿の紳士が、黄金色の麦畑のわき道を歩いている。その後ろについている一匹の子犬。韓国戦争当時、従軍画家として活動した張旭鎮が、1951年に描いた「自画像」である。心理的・経済的に厳しかった時代だったが、今後迫ってくる時間の頼るところのない孤独さを象徴している。赤い道の入り口に立っている画家は、堂々としており、絵は平和そのものである。残酷かつ辛い現実から離れ、自分の道を歩みたいという願いを垣間見ることができる。
自画像だけでなく、氏は自分を取り巻く周辺のものを好んで描いた。「私と自然、家族」の個人を基調に、誰もが共感できる普遍的で完結された世界を披露したのである。ところが、実際に絵を接すると、図版で見慣れたイメージが、これほども小さな絵だったのか、いまさら驚かされる。手のひらサイズの作品も多いが、その中に盛り込まれている物語は豊かである。特に、様々な「家族図」を見る楽しみは相当なものである。家族を宇宙の全てでもあるかのように考えた気持ちが感じられる。
展示室の入り口に掛けられている初期作「少女」。アカデミー風の写実的な人体表現から脱し、簡略化した線で、自分だけの色合いをあらわにした作品である。1950年代末、幾何学的な画面に形を単純化した作品を披露し始めた氏は、1960年代初頭、抽象への旅路に入ることになる。アンフォルメル画風の影響を受け、試みた抽象作業は、自分だけのスタイルを求める実験的な模索だった。以後氏は再び具象に戻り、2つの調和をなす作業を試みる。
●再び路上に立つ
「人生は超脱するもの。私は自分に与えられたものを使い切って去るつもり」
このように語った氏の作品は、晩年に近づくほど幻想的かつ観念的な色が濃くなる。ひげを伸ばした道人が登場する。生と死の境界を崩す作業である。そのうちの晩年の自画像「夜と老人」(1990年)に注目した。道の出発点に立っていた初期の自画像とは異なり、画家はすでに地上を離れ、天に昇っている。
生前に「私はシンプルだ」という言葉を好んで使った画家。人生も絵も、いつも素朴でシンプルなスタイルに拘った。これこそ激動する時代を生きながらも、しおれることのない夢や想像力を持ち、韓国人が共感できる作品を残した原動力となったはずである。
無欲の人生がプレゼントした孤独な余裕を顧みさせる展示である。年末年始のせわしない人に勧めたい。
mskoh119@donga.com