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田口耕一郎さん「1才の時に奪われた母を返してください」

田口耕一郎さん「1才の時に奪われた母を返してください」

Posted March. 06, 2009 05:36,   

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離婚後、1人で2人の子どもを育てていた田口八重子さんの行方が分からなくなったのは、1978年6月。耕一郎さんと2才上の姉は、突然孤児になった。耕一郎さんが1才の時だった。耕一郎さんは、伯父の飯塚繁雄さん(拉致被害者家族会代表)の養子となり、姉は伯母(田口さんの姉)が引き取った。

伯父は、耕一郎さんが養子という事実を隠した。衝撃を受けることを心配したからだ。祖母、伯父、伯母、家族皆が20年間、口を閉ざした。

姉は、母親の記憶がかすかに残っていて、田口さんが実の母親だという事実に気づいていたが、姉も耕一郎さんには一言も語らなかった。

真実は、21才の秋に突然訪れた。98年、米国出張のためにパスポートを作る時に、戸籍謄本に「養子」という文字があったのだ。

「ショックでした」

その直後、伯父は、「実は、お前の母親は別にいる。北朝鮮に拉致された田口八重子が、本当の母親だ」と言った。もう一度、衝撃を受けた。

耕一郎さんが世間に向かって、「私が田口八重子の本当の息子です。拉致問題に関心を持ってください」と叫ぶまでには、それから6年の歳月が必要だった。その間人知れず涙を流し、悲しみに耐えた。

実は、耕一郎さんは母親の記憶がまったくない。写真や金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏の本を通じて母親に接したのがすべてだ。そのため、金氏との出会いを大変に期待している。母親が、耕一郎さんがお腹の中にいた時に作った帽子や健康手帳、へその緒も持っていくという。自分と母親を結びつける唯一の絆だからだ。

離れていた月日を埋めようと、耕一郎さんは、母親が拉致される数ヵ月前に一緒に撮った色あせた家族写真を常に持ち歩いている。

耕一郎さんは、母親が86年に交通事故で死んだという北朝鮮の主張を信じていない。「北朝鮮が出してきた交通事故調査書には、母親の名前もなく、半分が黒く消えていた。帰国した拉致被害者の中には、86年以降に母親を見たという人もいる」というのがその理由だ。

04年に息子であることを公表したことについて耕一郎さんは、「6者協議で拉致問題の進展がない状況で、国際社会に早期解決を訴えるためだった」と語った。この時から、耕一郎さんは拉致問題解決のための活動に積極的に立ち上がった。

同年、金賢姫氏に会いたいという手紙を日本外務省を通じて送った。しかし、手紙は金氏に伝わっていないようだと、耕一郎さんは考えている。

耕一郎さんは、「離れ離れで暮らさなければならない拉致被害者家族の悲しみに耳を傾けてほしい」と語り、韓国国民の関心を求めた。



jkmas@donga.com