▲起訴13年が経って拘束〓セルビアのボリス・タディッチ大統領の秘書室は22日、緊急声明を発表し、「セルビア警察が、カラジッチ被告をベオグラードで拘束し、セルビア内の戦犯裁判所に身柄を移送した」と明らかにしたと、AP通信などが報じた。
AP通信は、セルビア警察関係者の言葉を引用して、「外国の情報機関の力を借りて、数週間、ベオグラード近郊で張り込みを続け、カラジッチ被告を拘束した」と伝えた。
拘束当時、カラジッチ被告は抵抗しなかった。弁護人のスベトザル・ブザシチ氏は、「発表と違い、18日午前、カラジッチ被告がバスに乗っている時に拘束された」と、ロイター通信に話した。
カラジッチ被告の拘束を受け、欧州連合(EU)の議長国フランスの大統領室は、「セルビアがEUに近づく重要な一歩だ」と歓迎した。AFP通信は、5月に実施されたセルビアの総選挙で、民主党(DS)中心の親EU派が勝利したことを取り上げ、カラジッチ被告を拘束できなかったことが、セルビアのEU加盟にとって最大の障害だったと分析した。
1945年、旧ユーゴスラビヤ連邦のモンテネグロ山岳地帯で生まれたカラジッチ被告は、セルビア民族主義者で、ヨシップ・ブロズ・チトー元ユーゴ大統領に抵抗して投獄された父親の影響を強く受けた。カラジッチ被告は、サラエボに移住して医学を専攻した後、初期の頃は精神科医師や詩人として活動した。
カラジッチ被告が政治に頭角を現わしたのは、1980年のチトー大統領の死亡後、ユーゴ連邦が解体の過程に入ってからだ。ソロボダン・ミロシェビッチ元ユーゴ大統領の主導で、セルビア民族主義が力を得ると、カラジッチ被告は民族主義支持者たちを糾合して、1989年、セルビア民主党(SDS)を結成し、党首に就任した。
その後、カラジッチ被告は92〜95年、ボスニア紛争当時、ボスニア・セルビア系のリーダーとして活動し、集団殺害と人権蹂躙を主導した。国連旧ユーゴ国際戦犯法廷(ICTY)は95年6月、虐殺、拷問などの容疑を適用して、カラジッチ被告を初めて起訴した。カラジッチ被告は96年6月、すべての職位から退き、姿をくらませた。
▲「欧州のオサマ・ビン・ラディン」〓ボスニア紛争を終息させたデイトン協定で仲裁役を務めたリチャード・ホルブルック元国連米国大使は、カラジッチ被告が拘束された後、英国の日刊テレグラフに、「『欧州のオサマ・ビン・ラディン』がつかまった」と話した。カラジッチ被告の逃避生活を素材に、『スプリング・ブレイク・イン・ボスニア』という映画が作られたほど、カラジッチ被告は神出鬼没で、逮捕網を逃れてきた。
しかし、オサマ・ビン・ラディンのように、カラジッチ被告の潜伏生活については、正確に伝えられていない。一部では、モンテネグロ山岳地帯に身を隠し、セルビア正教会関係者の保護を受けていたと推測されている。カラジッチ被告が、女装して生活していたという話もある。一時は、北朝鮮に脱出したという憶測も流れた。
▲容疑と今後の手続き〓カラジッチ被告の代表的な容疑は、第2次世界大戦後、欧州最悪の虐殺となった「スレブレニツァの虐殺」だ。国連は、93年のボスニア紛争時に、スレブレニツァに安全区域を設定し、ボスニア内のイスラム系とクロアチア系住民を保護したが、カラジッチ被告は95年7月に、この地域を集中的に攻撃し、8000人以上を虐殺した。
また国際社会は、ボスニア紛争時に30万人前後が死亡し、約2万人の女性が性的暴行を受け、180万人が家を失って強制移住されたことについても、カラジッチ被告の責任を追及している。ICTYが起訴したカラジッチ被告の容疑は15にのぼる。
今後、カラジッチ被告は、ベオグラード裁判所での1回目の取調べを受けた後、オランダ・ハーグにあるICTYに移送され、裁判を受けることになる。AP通信は、事案の複雑さを考慮すると、カラジッチ被告の裁判には、少なくとも数ヵ月がかかると見通した。
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