99年6月15日、南北海軍間の第1延坪(ヨンピョン)海戦は、当然、韓国側の勝利だった。北朝鮮はその前年まで、潜水艦と潜水艇を使って、東海(トンヘ、日本海)侵入に力を入れた。韓国海軍は、東海の警備を強化せざるを得なかった。北朝鮮は98年11月、方向を突然西に変え、江華島(カンファド)にスパイ船を送り、発見された。「声東撃西(東に向かって声を出しつつ西を撃つ)」をしたわけだ。北朝鮮の狙いを見抜いた海軍第2艦隊は、10余りのシナリオを作り、数ヵ月間にわたって準備したことが、第1延坪海戦での勝利につながった。
◆この交戦は、偶発的な衝突ではない。緻密に計画された北朝鮮の挑発によって始まった。同日、板門店(パンムンジョム)で開かれた国連と北朝鮮の将官級会談で、北朝鮮側代表は午前10時に会議が始まると、「午前9時15分に南朝鮮の先制攻撃で戦闘が起った」と憤激した。国連司令部側は、事実を確認するために奔走した。分かってみると、北朝鮮の作戦予定時間は9時15分。しかし、9時28分に始まったため、北朝鮮側代表が間違えたのだ。北朝鮮の海軍司令官が、延坪島の向かいの基地で直接戦闘を指揮したことも、挑発の証拠だ。
◆金大中(キム・デジュン)、金正日(キム・ジョンイル)政権の参戦部隊に対する待遇は、正反対だった。勝利した朴ジョンソン第2艦隊司令官(少将)は、「参謀総長特別補佐官」として待機命令を受け、そのまま6ヵ月を過ごした。さらに、軍需および情報作戦参謀部長、軍需司令官を務めたが、昇進できないまま退役した。いっぽう、金正日総書記は、敗戦した西海(ソヘ、黄海)艦隊司令部第8戦隊に牛肉を送って激励した。第8戦隊大将は、3年後の02年6月29日、第2延坪海戦を起こし、韓国艦艇を沈没させ、将兵6人を犠牲にして、金正日総書記に報いた。
◆第1延坪海戦があった日にも、肥料を積んだ韓国側船舶が、海州(ヘジュ)港で待機していたり、南浦(ナムポ)港に向かっていた。金剛山(クムガンサン)観光も継続した。北朝鮮の地に無条件的に太陽の光を送ることが、どれほど無駄な政策なのかを、延坪海戦が見せつけた。当時の海軍の交戦指針は、将兵たちの手足を縛る「先制射撃、拡戦の絶対禁止、北方限界線(NLL)絶対固守、賢明な対処」だった。そのような困難に耐えながら、韓国海軍は勝利した。9年経って建てられた戦勝碑だが、誇らしい。
陸貞洙(ユク・ジョンス)論説委員 sooya@donga.com