3・1運動は、東亜(トンア)日報の母胎だ。武断統治期の日本の植民地統治は、韓国人の日刊新聞発行を徹底して禁止したが、民族的抵抗にあい、統治方式をいわゆる「文化政治」に変えて、東亜日報と朝鮮(チョソン)日報の発行を許可した。
3・1精神は、平和と非暴力だ。全国的組職を持つ体系的な運動ではなかったが、ソウルで火がつき、全国の都市や山村に至るまで展開され、海外の同胞や列強の侵略下にあったアジアの国々の民族運動に飛び火した。
1907年の国債補償運動と3・1運動は、2つの共通点を持つ。抗日独立という目標が同じであり、全国的な組職のない自発的な民族運動という点が同じだ。ふたつの運動は、「独立」という目的をすぐには果たせなかったが、影響が継続して展開されたという点も共通する。民族意識、民族精神を目覚めさせ、強烈な闘争精神を刺激し、独立の意志を燃やさせた。3・1運動は、国際的に韓国の境遇を広く知らしめ、その後の独立運動の支援を受ける契機になり、宣伝資料を提供して独立の基礎をつくった。
3・1運動の結果、国外では臨時政府が樹立されたが、国内には民族を代表する組職が結成されなかった。植民地統治当局が許可した民族的求心体は新聞社だった。民族自立の基礎になる民族文化の向上と民族資本を確立しようとしたが、これを結集する機関がなかった。政府のない民族が意思を疎通できる方法は、言論、出版、集会、結社の自由だが、植民地統治当局がこれを許可するはずがなかった。総督府統治下で制限された範囲であれ、新聞を持つことができたことで、教育、文芸、学術、宗教、実業などのすべての分野の知識人たちは、精神的な求心点で疎通し、つながりを持つことができた。
東亜日報は、3・1運動の熱気冷めやらぬ1920年4月1日に創刊された。植民地支配の武断統治期に押えつけられた民族の鬱憤(うっぷん)が3・1運動で噴出し、民族解放に向けた新しい方向が求められた時だった。社会的緊張が高まり、独立を果たす方法論も一つに統一されていない状態だった。流れ込むさまざまな思想と時代の思潮の影響で、価値観は混沌としていた。民族主義だけでは植民地統治の基盤から抜け出せないという自覚が生まれ、社会主義、共産主義、無政府主義のような各種の思想も流入し始めた。1920年代半ばまでに、社会主義は西欧式自由主義に幻滅を抱いた知識人にとって新しい代案的世界観として登場し、民族主義と合流する形態を帯びた運動として現れた。多様な思想は、1920年以降に出現した新聞と雑誌を通じて論議され、拡散した。
「私たちは全精神を傾け、この機に民族百年の大計を確立し、それが確立される日からその計画の実現のために、全民族的大奮発を計画しなければならないだろう」(東亜日報1924年1月3日付社説「民族的経綸」)というのが当時の雰囲気だった。植民統治機構の監視も比例して強化された。総督府は、合併後に警務局高等警察課が担当した言論、出版、文芸、大衆芸術などの監視と統制業務を専門化して図書課を設置(1926年)し、独立運動と思想問題は高等警察課が担当するものとした。
3・1の精神を受け継ぐ使命を担った新聞も、強化された監視と統制の網から逃れることはできなかった。しかし、東亜日報は1920年7月12日付の3面に、3・1運動の指導者48人の公判記事を載せ、48人の顔写真を全面に掲載する破格の編集を行なった。また、1930年代になって展開されたハングル普及と農村啓蒙のブナロード運動、「朝鮮の歌」の制定、忠武公遺跡保存運動、1920年創刊直後に推進された檀君影幀の懸賞募集、その翌年の白頭山(ペクトゥサン)探険のような事業も、3・1精神の延長線上で起こったものだ。物産奨励運動、朝鮮民立大学運動(1923)は成功しなかったが、政府のない植民地統治下で、新聞が行なった民族運動の一環だった。
光復(クァンボク〓日本の植民地支配からの解放)以降、政界、実業界、学界、文化界などの分野に東亜日報と植民地統治下の民間新聞出身の報道関係者が進出して、建国と民主化、民族文化の発達に貢献できたのも、3・1運動の継承によるものと評価できる。政治活動が禁止され、政府のなかった植民地統治から独立した国で働く人材が、新聞社を根拠地として命脈をつないでいったのだ。3・1節を迎え、その精神を再び振り返る。